1キャラにつき1夢主
松田・萩原夢は同一世界軸の生存ifです

他活動場所
pass:DCdreAm

 どうして世界は、この人に安寧を与えてくれないのだろう。
 平和を願うこの人に、他人の幸福を真っ直ぐに祝福するこの人に、一体何の恨みがあるというのだろうか。

 閉じられた瞼の長い睫毛を見つめながら、確かな心音と穏やかな寝息を聴きながら。

 風羽先輩が吹き飛んだのが十一月、その翌年四月の内示で警察庁への出向を明かした蝶野先輩が警視庁に戻ってきたのは、出向から三年後の十月。
 正直なところ、惚れた贔屓目を差し引いても優秀な先輩はそのまま警察庁の配属となり、職務中に姿を見ることもままならなくなるものだと思っていた。

 しかし予想を覆し、その人は改めて警視庁機動隊特殊中隊長の席についた。そして彼を歓迎する声は多く、それは松田も同様だった。
 中には馬鹿正直に「戻ってこないかと思ってました」とぶつけた隊員がいたほどで、困ったように眉尻を下げて笑った蝶野の顔を、松田はよく覚えている。

「……ん、ぅ」

 自身の体温に擦り寄ってすよすよと心地良さそうに眠る蝶野を松田は愛おしげに見つめた。未だ先輩と後輩の域を越えていない関係ではあるが、改めて思慕を伝えたあとの、この無防備である。松田としては合鍵を渡され、同じベッドと毛布の間に身を寄せて眠ることを許されたその信用は、遠回しに恋愛対象には見れないと言われているような感覚であるが。

「……先輩」

 指先で恐る恐る白い頬に触れ、するりと手のひらで蝶野の素肌を撫でる。形の良い唇を親指の腹で押し撫でては松田の口角が期待と情愛に緩んだ。
 長い睫毛を震わせて、ゆっくりと瞼が開く瞬間が待ち遠しい。安らかな眠りから醒めるのを待つこの時間ですら、堪らなく愛おしい。

「今はアンタが、安心してくれんならいい」

 己の隣は安全だと認識して、身を寄せてくれるようになるのなら、それで。欲張れば、隣に居座る権利や触れる許可が欲しいけれど。猫のような目は一見険しげに蝶野を見つめると甘やかに和らいだ。

「蝶野さん」

 薄く開いた唇を唇で塞ごうとして思い留まった松田はキスの代わりに指先を這わせた。この無防備な寝息も触り心地の良い肌も、知っている誰かが存命でないことを祈りつつ、安息の場を持っていてほしいとも思う。

 穏やかに、純粋に、愛している。
 情愛を持って蝶野を抱き締めた松田は、無抵抗な額に唇を押し付けて瞼を閉じた。腕の中の体温が松田の意識を心地好い微睡みに誘い込む。

 ゆっくりと、夢と現実が溶け合っていく。次第に思考能力が沈み落ち、けれど愛おしさは明確に残したままで、松田は意識を手放した。



 ──流石に警戒心がなさすぎではないか。松田は改めて、腕の中で安らかな寝息を立てる蝶野にそう叫びたい気分であった。
 仮にこれが淡白で事務的な感情のみで構築された関係であれば何の感慨もない──と言い切れる距離感ではないとは思うが、状況として既に想いを伝えた後である。なんの邪念かめちゃくちゃに抱く夢まで見てしまう始末の男を前にして、やはり無防備が過ぎるのではないだろうか。伝えた恋慕に性愛が含有されないと思っている可能性は、無きにしも非ずであるが。

 もぞりと甘えるように胸元へと額を擦り付ける蝶野を抱き込んだ松田は奥歯を噛み締めた。床とカーテンの隙間から漏れる陽光はもう日中を示している。居心地が悪いのか身動ぐ蝶野の頬を撫でた松田は両目を細めた。
 パチリと開いた蝶野の目が訝しむように松田を見上げて眉間に皺が寄った。情けなく、愛らしく下がった眉尻からは困惑が窺える。

「……まだいたのか」
「アンタの寝顔見れんの、今しかないんで」

 無言のまま松田の胸に額を擦りつけた蝶野は溜息を吐いて起き上がると、くしゃりと松田の前髪をかき混ぜる。

「悪趣味だぞ」
「アンタも大概だろ。テメエに劣情抱いてる男の前で気持ちよさそうに寝やがって」
「でもお前、非合意では手出さねえだろ」
「当たり前だ、犯罪だぞ」

 ゆったりと起き上がった松田にくつくつと笑った蝶野は、あやすように頭を撫でるとベッドから足を下ろした。伸びをしながら遠ざかる寝癖の付いた後髪を睨んだ松田は片手で顔を覆って項垂れる。

「っ、そうやって」

 期待させるようなことすんなよ。ぼやくように吐き出した松田は背中からベッドに沈むとゴロゴロと転がった。

 どうせなら、手を出されない確信より好きだからと言ってほしい。それはそれで安全という信用を保てる自信がなくなってしまうけれど。むくりと起き上がった松田は頭を左右に振ると両手で自分の頬を叩いた。寝室のドアの向こう側から朝食の香りが漂ってくる。片想いしている人の家で、同じベッドで眠りにつき、朝食を提供される。恐らく期限付きの関係に歯噛みしつつ、その特別を得られているならせめて嫌われないようにと松田は居住まいを正した。

 少なくとも家の中に招き入れてもらえる程度の好感度、下心があれど曖昧なままで手を出してくるとは露ほども思っていないのだろう信用を失うわけにはいかない。のそのそとリビングに顔を出すと心なしかまだ眠たそうな蝶野がテーブルの上にトーストの乗った皿を移動させているところだった。

「……おはよ」
「はようございます。……面倒じゃないすか、いつも俺の分まで」
「……いらないなら食べなくていい」
「食べますよ。アンタの手料理うまいし、役得なんで」

 じっとりと物言いたげな視線だけを向けた蝶野はすぐに椅子に座って両手を合わせる。慌てて松田も正面の席についた。
 白い皿の上は真ん中で切られて二枚になったトーストと焼き色のついたベーコン、花形に形成されたスクランブルエッグが小綺麗に盛られている。いかにも手間の掛かった朝食に付け合わせのスープが味噌汁というアンバランスさも相俟って松田の口角が緩んだ。

「……なにニヤけてんだよ」
「朝から好きな奴の顔が拝めた上に手料理まで用意されてたらニヤけても仕方ねーだろ」
「懲りねえのな、お前」
「懲りるもなにも、俺は俺と同じもんアンタから向けられてーんだ。絶対逃さねえよ」

 この奇妙な同居生活が始まったのは、果たしていつからであったか。綺麗な焼き色のついたトーストを齧りながら、松田はじっと目の前の男を見つめた。

「……どうしたら諦めんの」
「嫌なら嫌って言ってくださいよ。そうしたら、もっと……考えるからよ」

 聞いているのかいないのか、もぐもぐと口を動かして朝食を平らげていく蝶野に「あんたもう俺のこと結構好きだろ」言いかけた台詞を咀嚼した食べ物と一緒に飲み下す。
 あれは、資料室で分かりやすく困らせたまま警察庁への出向を見送ってから、三ヶ月ほどが経過した頃だったはずだ。

 思い出すには苦すぎる記憶であるが、凶器を持った容疑者が暴れて収拾がつかないと機動隊の出動要請が掛かった現場で起こした事故である。経緯としては、盾と人数を以て制圧したその容疑者がしっかりと捕縛された直後に放った言葉が、松田の決して長くはない導火線に火をつけてしまったのだ。その結果、暴行罪として立件されかねない松田の制止を試みて、容疑者と松田の間に滑り込んだ蝶野が松田の拳を真正面から受けることになった。咄嗟のことに勢いを殺しきれずに放たれた、ボクシング経験者である松田の右ストレートに軽い脳震盪を起こして倒れた蝶野は、現場の判断により呼ばれた救急車で運ばれて行った。

 冷や水を浴びせられたようにピタリと思考の一切が停止して、弱くない肩への衝撃が呆然と立ち尽くした松田の意識を引き戻す。

 陣平ちゃん。

 やけにゆっくりと見える視界の端で、殴るはずだった容疑者が刑事に連行されて警察車両に詰め込まれていた。

 ──おい、松田!

 肩を揺すられ、知らず止めていた呼吸が正常に呼び起こされる。聞き慣れた幼馴染の声が処理落ちした脳内を滑り、意味を成さない雑音として右から左に流れていく。右手に残った感触が引かない。ゆっくりと、視界に色彩が戻る。

「松田!」

 ひゅう、と松田の喉が鳴った。処理しきれずに留まっていた状況が一目散に脳内を駆け巡る。ふらりと半歩後退った松田の視界に心配と焦りを宿した幼馴染が飛び込んだ。

「お、れは……、なんで」

 明らかな動揺が周囲に認識されるには十二分な時間を以て、松田はようやく言葉を発した。そこから先の記憶は残念ながら松田には残っていないが、三日間の謹慎処分を言い渡され、寮ではなく久方振りに実家に帰ったという記憶は残っている。
 とはいえひたすらに酒を呷り、呑んだくれて荒んだ日々を過ごす父親と同じ空間に耐えられるわけもなく、大半の時間を屋外や萩原の実家に入り浸るなどして過ごしていたのだが。

 その間、事のあらまし──一体どこからどこまでかは判断がつかないが──を弟から聞いていたらしい千速に突かれもしたが、その度に松田の思考は容疑者を巻き込んで倒れた蝶野に切り替わり、曖昧な返事ばかりを吐き出していた。

 その胡乱で上の空だった松田に好転を齎したのは萩原研二から届いた一通のメールである。あの時の約束と、気晴らしに、という文面に快諾の返事を送ったが、約束を取り付けられた当日、三十分ほど遅れて到着した萩原は蝶野を引き連れていた。蝶野と目が合った瞬間、反射的な後退った松田の背中にぶつかった大男には確かな見覚えがあり、わずかに目を見開いて立ち止まった蝶野の反応を見ても、蝶野が萩原を経由して松田とのコンタクトを図ったとは考えにくい。つまりは萩原と伊達が結託して引き合わせたと思わざるを得ず、事実それが真実であったのだから複雑な感情が滲む。

 対して後退った松田を視認した蝶野は犯人確保に駆ける刑事さながらの瞬発力で距離を詰めるのだから、逃げたくもなるものだ。残念ながら目敏く引き留めた伊達によって逃亡は失敗し、あえなく蝶野の腕の中に収まったのだが。

「なんで逃げんだよ」
「ス……いや、逃げるだろ。あんな勢いで来られたら」
「走る前から逃げようとしてたろ」
「そ、れは」

 わしゃわしゃと頭を撫でる手に、抱き締められた体に、彷徨って宙空に浮いた松田の腕が、意を決して蝶野に触れようとした矢先、するりと体温が離れる。真正面に立った蝶野の頬に手のひらを沿わせた松田の指先が、確かめるように目元や鼻筋を滑り唇に触れた。おかしそうにくつくつと笑う蝶野の肩口に顔を埋めた松田は恐る恐るその体を抱き締める。

「どこもかしこも、なんともないだろ」
 変わらない体温、穏やかな声。確かな安堵に、息を吐く。
「……よ、かった」

 喧騒に紛れるほどの声で呟かれた松田の声に、蝶野は再び黒色の天然パーマをかき混ぜた。ボサボサにされる頭髪も、この時ばかりは無言で受け入れる。元よりヘアセットをしたわけでもない天然ものだ。怒る道理も、松田にはなかった。
 名残惜しさを抱えつつも蝶野を解放した松田に、ゆっくりと歩み寄っていた萩原がからからと笑う。

「ところで先輩、これから暇ですか?」
「航くんと約束してるから無理」
「ええっ! 俺たちの先輩とどこ行くんだよ班長!!」

 あっさりと断られた萩原が伊達に詰め寄る。伊達は苦笑いしながら目を逸らした。

「ハギお前、俺が相手にされねーからって変な気ィ回してんじゃねーよ」
「バレた? でも陣平ちゃんだって先輩と猫ちゃんの絵面見たいでしょ」
「……なに、猫キャバ? 場所は?」

 くつくつと笑いながら言う蝶野に萩原の目が輝く。その隣で松田が呆れたように溜息をついた。ていうかなんだ、猫キャバって。当然のように通じている蝶野と萩原を見やってから、松田は伊達が困惑の色を浮かべていることに気付く。

「つーか班長、先輩といつ知り合ったんだよ」

 所轄の刑事である伊達が警視庁の機動隊員とどこで知り合えたのだと訴えれば、「俺が小学生くらいの時にはもう」「ベッタリだったよな。大泣きの卒園式と入学式の写真もあるし」あっけらかんと当事者二人が記憶の照合をする。
 幼馴染。腐れ縁? 兄弟のような。質問主である自分を置いてきぼりにして交わされる会話に松田は口をへの字に曲げた。話題を振った張本人であるが、どこか漠然と不満が募る。

「まさか警察学校に入ってからも反抗期が続くとは思わなかった」

 一度だけこくりと首を縦に振っては感慨深そうに呟いた蝶野がおもむろに歩きだす。松田と萩原は慌ててその両隣を歩き、多少の距離を持って伊達も付き従った。少し前まで同じ部隊の先輩後輩であった三人の後ろ姿を眺めながら、萩原はともかく、自分のペースを崩されるのを嫌がり、粗悪なコミュニケーションで警戒を示す松田がよく懐いたものだと感心する。──そもそも松田は、どういう経緯か蝶野に特別な好意を抱いているのだったか。

「いい同期に巡り逢えたみたいでお兄ちゃんは安心したけどな」

 ひらりと柔らかく、言葉が舞った。

「言ってくれりゃあよかったのに」

 親父のこと。ぼそりと呟いた伊達に蝶野は怪訝な顔をして足を止める。

「あのときのお前がそれで納得できたのか?」

 ぐうと伊達が言葉を詰まらせた。

 その会話の中身が警察学校時代にようやく解消した、幼少期の伊達が抱いた実父への誤解であることに気が付いた萩原はからりと笑って「先輩ホントに近所のお兄ちゃん、て感じスね」軽やかに言った。

「だろ? 体育祭の父兄参加もしたし」
「ぶっちぎりの一位で颯爽と帰ったあの美丈夫は誰だってしばらく持ち切りだったんだぜ」

 楽しそうに萩原に答えた蝶野が再び歩き出すと、感慨深そうに伊達が言った。伊達の中学時代か高校時代かまでは判断が付かないが、それはいわゆるところの初恋泥棒だっただろうと松田は蝶野の横顔を盗み見た。

 バチリと目が合う。わずか動揺した松田は伸ばされた手を交わし損ねた。

「なに拗ねてんだよ。つーか目的地違うだろ」
「別に拗ねちゃいねーし、向かう方向が同じなんだよ」

 なあ萩原。同意を求めた松田に「おうよ」と明るく返した萩原が口にした行先に蝶野が笑う。

「なんだ、同じとこかよ」

 キラリと萩原の目が輝く。まるで犬の耳と尻尾の幻覚が見えるような反応に、急遽四人での猫カフェの入店が決定した。



 かくして、猫を吸い寄せる魔法アイテム──高級おやつを手にした松田はあえなく敗北を喫していた。とはいえ数匹のキャストは、警戒しつつもおやつを目的に松田へ擦り寄っていた。流石、キャストに大人気の空間の一つと言ったところだろうか。
 猫を集める一人は蝶野であるが、それと同じくして大人気の空間には、猫にフラれる松田の幼馴染である萩原の姿があった。そして悔しいことに、松田では見向きもされない備え付けのおもちゃも、萩原がふよふよと動かせば猫の関心が一目散にそちらに向く。

 そんな中カシャリと、カメラのシャッター音が松田の耳に届く。即座に鋭い視線が萩原の後方に向き、数匹の猫が驚いて松田に爪を立てた。猫にばかり関心が向いていた蝶野は逃げ出した猫に驚いて松田を見上げると、その視線を追って手を振った。同じように辺りを見回していた萩原が蝶野につられて振り返ると、携帯電話を片手に苦笑いを浮かべた伊達と目が合う。視線を蝶野の方に戻した萩原は、その近くに不貞腐れた松田を見つけ、思わず苦笑いした。松田の視線は何事もなかったかのように猫との戯れに戻っている蝶野に向いている。

 あとで写真を共有してもらうことに決めた萩原は、椅子に座っているだけの伊達の膝の上に一匹の三毛猫がのんびりと丸まってくつろいでいることに気が付いた。どうやらキャストに構ってもらえていないのは松田だけらしい。人間の女性であれば、その整った容姿から関心を集めに集め、気を引こうとされる側である幼馴染にしては珍しい光景である。尤も、こうして松田が猫にフラれるのも、この場所への来店も二度や三度のことではない。

「俺も撮る側しよっかな〜」

 萩原の足に頬を擦り寄せていたハチワレ猫は、もっと構えと言わんばかりに立ち上がった萩原の足の上に前足を乗せて二、三度鳴いた。にゃあ、にゃあ。まるで親猫に甘えるような声に根負けした萩原はひょいとハチワレ猫を抱え上げると伊達の座るテーブル席に腰を下ろした。すると、伊達の膝の上を占領していた三毛猫がぽてりとテーブルに乗り上げて萩原の前に座る。ゆらゆらと揺れる尻尾に頭をひと撫ですると、キャストは嬉しそうに手のひらに頭を擦り付けた。

「……見事なもんだな」

 ちらりと伊達を見た萩原は連れ去ったハチワレ猫に登られながら「それ、どっちに言ってる?」苦笑いで松田を見た。

「いやぁ……どっちにも」

 猫寄せと猫避け、思えば風羽は猫に嫌われる猫好きで、専ら蝶野と二人で猫に会いに来ては、蝶野の恩恵に与って猫を愛でていたと聞く。
 松田も風羽側かと、猫と戯れながら顔を綻ばせる萩原を眺め「わ、わわ」焦りと困惑の混ざった声に続いた笑い声に伊達の視線は再び蝶野と松田を捉えた。

 大人しそうなラグドールが悠々と蝶野の背中に乗り、当然のように松田を威嚇している。同調するように周囲の猫も毛を逆立てているが、一度蝶野に撫でられると甘えるようにころりと転がって腹を晒していた。どさくさ紛れに猫を撫でた松田に猫パンチが炸裂する。

 パシャリと、萩原の携帯電話が音を鳴らした。

「あ、班長さっきの、あとでちょーだい。俺のも送るからさ」
「本人の許可が出たらな」
「ちぇー。まぁそりゃそうか」

 萩原の視線が携帯画面に注がれた束の間に膝の上まで猫に占領された蝶野の背中にもう一匹猫が飛び乗った。萩原の携帯電話が更にシャッター音を鳴らす。
 のしのしと蝶野の背中で足踏みした猫は、近くで様子を伺う松田目掛けて飛び掛かった。綺麗に揃えられたキャストの爪が咄嗟に頭を守った松田の腕を引っ掻くと、袖に爪を残したままブラリと体を宙に浮かせる。服に絡まった爪が抜けずによじ登ろうとした猫はさらに松田に爪を立てた。

「痛っっってぇな」

 くつくつ笑った蝶野が松田の腕に絡む猫を捕まえると、絡み合った爪と布とを外して喧嘩を売った小動物を床に下ろす。媚びるように愛らしく鳴いた彼は蝶野に体を擦り寄せた。松田がわずかでも蝶野に近寄れば、毛を逆立てて威嚇する様子はなかなか見応えがある。

 今度は伊達の携帯がシャッター音を奏でた。するりと、萩原に着いて来た猫の一匹が伊達の足に頬を寄せる。おざなりにテーブルの上を転がる猫じゃらしを揺らした伊達に猫が飛び上がった。バシリと獲物を捕らえようとする猫の爪が伊達に被弾する。
 痛ってて。伊達の小さな悲鳴、勝者はキャスト猫といったところか。

 猫に弄ばれる写真係を激写した萩原は、つい先程まで蝶野の隣を陣取っていた松田の姿が見当たらないことに瞠目した。辺りを見回してゆらりと近付いた影と一目散に散って行った猫に、その影が捜している人物であることに気が付く。ニャー。不満気に鳴いて見上げる猫を撫でたその男は見事に爪を立てられる。

「支払いは俺がするから」
「えぇ? いいよ。そもそも今日のは、俺があの日の約束守れなかったからじゃん」
「いい。俺からの礼ってことで」

 松田の言葉に素っ頓狂な声を上げた萩原は、普段は見下ろす松田を見上げ「なんのこと?」思い当たらない心当たりを本人に訊ねる。

「先輩のこと」

 ぶっきらぼうに答えた松田が床に胡座をかけば、萩原の周りに集まり直したキャスト達が揃って威嚇した。気にしていない風で猫と格闘態勢を取った松田を激写した萩原の近くでシャッター音が鳴る。

「班長。先輩の写真、俺にもくれ」
「揃いも揃ってお前らなぁ……」
「なんだよ。いいだろ、減るもんじゃねーんだし」
「一応お前達からも許可取れよ」

 あの人そういうの嫌がるから。猫じゃらしでキャストの関心を引きながら言った伊達にピタリと動きを止めた松田は、しばらくしてゆっくりと伊達を見上げる。

「なんだよ。嫌われたくねーんだろ?」
「……バレなきゃいいんだろ」
「俺の信用問題に関わる」

 チ、と小さく舌打ちした松田に猫が猛抗議する。痛ってえな。己より遥かに小さな生き物のパンチは、さすが食肉目と言うべきか中々のダメージになる。パシャリ。真正面から聞こえたシャッター音に松田がそちらを向けば、猫に登られながら携帯を構えた蝶野が笑っていた。

「……盗撮スよ」
「えぇ、だめ?」

 猫カフェ効果か、普段より幼い声色に危うく二つ返事で承諾しそうになった松田は一度言葉を飲み込んだ。自分ばかりが撮られてデータを残されたままでは割に合わない。

「アンタの写真と交換ならいいスよ」
「……仕方ねえな。携帯貸せ」

 想定と違う返答に疑問符を浮かべつつ、松田は蝶野に携帯を差し出した。カチカチとボタンを押し込む蝶野の指先をぼんやりと見つめる。携帯の裏面を確認した蝶野は猫を抱えると松田の隣に座り、裏向きにした携帯を構えてボタンを押し込んだ。カシャリと音が鳴る。
 呆気に取られる松田をよそに、携帯を持ち直して写真を確認した蝶野は写真を表示させたまま松田に携帯を返し「これでいいだろ」ひとり納得して被写体の仲間にした猫を撫で回した。

「いや、そういう意味じゃなくて」

 これはこれでいいんですけど。しどろもどろに訴える松田に蝶野は疑問符を浮かべる。

「別に俺は写ってなくていい、んだけど」
「あ? あー……それは航くんとか萩原からもらえよ。お前らならいいよ」

 猫から視線を外すことなく答える蝶野に構われようと何匹かのキャストが松田の足によじ登った。
 目的がその先とはいえ、猫が自ら近寄ってくるという状況に松田の口から出かけた言葉が霧散する。恐る恐る背中を撫でても引っかかれない。衝撃に萩原を見上げれば、まるで微笑ましいものを見守るように柔らかい表情を向けられていた。カシャリ。揶揄うように萩原の携帯が音を鳴らす。

「航くん入店時間覚えてる?」
「そろそろ一時間、てところだな」

 カチカチと携帯を操作してから伊達が答えれば、抱え上げられた猫がふにりと蝶野の唇に前足を押し付けていた。ずるい、俺だって触りたいんだぞ。蝶野と戯れるキャストを見ながら、いっそ猫にでもなれれば、とまで思考が飛んだところであっさりと蝶野が立ち上がった。ひょこりと猫が床に飛び降りる。

「んあ、帰んの?」
「帰るよ。時間決めてないといつまでも居座りたくなるからな」

 確かに。頷いた萩原を横目に捉えつつ、先程蝶野の唇に手を置いた猫の行方を追えば、自慢げに松田を見上げて一度だけ鳴いた。愛らしい姿をしていながら、なかなか好戦的なオスである。

「なら俺も、」

 帰る、と言おうとして思い留まった松田に萩原はからりと笑った。

「いいよ、陣平ちゃん。写真も沢山撮れたし、俺は満足」
「……悪ィな」
「いいってことよ! 早く行こうぜ。置いてかれちまう」

 松田を急かす萩原にキャストがにゃあ、にゃあと名残惜しげにか細く鳴いた。店の外までは着いて来れない猫たちに萩原が手を振る。猫でなくてよかった。幼馴染と遊びに出掛けられるし、先輩の後を追うことだってできる。先程まで自慢げだった猫を振り向いた松田は勝者の笑みを浮かべ、見事に引っ掻かれたのだった。