「で、どこまで着いて来んの?」
「アンタの行くとこまで」
困惑と呆れを内包した蝶野の声に躊躇いなく即答した松田は、苦笑いを浮かべる伊達を半目で見上げる。言うまでもなく、その眼差しにはありありと不満が滲み出ていた。
「航くんの実家まで着いて来んの? やめろよ」
「えぇっ!? じゃあそのまま泊まる予定だったりしますか?」
「……? そうだよ。昔から世話んなってるし」
チッ。多少の距離があっても聞き取れるようなハッキリとした舌打ちが松田から発せられる。
「おい、なにに怒ってんだよ」
わずかに振り向いて苦笑いした蝶野からあからさまに目を逸らした松田はぶっきらぼうに「別に」とだけ答えるとサングラスで目元を隠した。どうやら本当に不満かつ、流石に伊達の実家にまで押しかける気はないらしい幼馴染の様子に萩原は肩を竦める。
恐らく松田の本心としては、警察学校の同期である伊達の実家に押しかけること自体には躊躇いがないのだろうが、蝶野からシンプルな拒否を示されたことが大きいのだろう。嫌われたくない、というのは切実な感情らしい。
「……ズリィ」
なにが。即答の割に困惑した様子で片眉を下げた蝶野に萩原が答える。
「俺も蝶野先輩とお泊まりしたかった〜ってジェラってんすよ。ね、陣平ちゃん」
「ハァ!? 別に、」
図星に動揺した松田が声を上げれば、萩原はまるで代弁してあげましたと言わんばかりのとびきりのウィンクをして見せた。舌打ちした松田は訝しげな視線を向ける蝶野に気が付き目を泳がせる。
「っ、そんなんじゃ……ない、ことも、ねぇけど」
聞いているのかいないのか、曖昧な返事をした蝶野はポケットから幾つかの鍵を取り出した。一つのカラビナに繋がれた複数の鍵と、鍵に付けられたキーホルダーが高い音を立てる。以前見かねたらしい機動隊の誰かがキーケースを贈っていたような気もするが、当の本人は「至にもらったのもまだ開けてないんだよな」とぼやいていたあたり、性に合わないのだろう。ぼんやりと蝶野を眺める松田の目の前に鍵が差し出される。反射で受け取った松田の手の中で、銀色の鍵と鈴の付いた黒猫のキーホルダーが音を立てる。
「……なんすか」
「合鍵」
「、ハァ!? アンタ、」
何考えてんだよ。言いかけて閉口した松田は鍵を握り込んだ。くつくつと笑った蝶野は「これ以上着いて来んなよ」ひらりと手を振って駅の喧騒の中に吸い込まれていく。萩原は処理の追いつかない松田が呆然とその背中を見つめ続けている姿を眺めながら、松田と同様に激しく動揺した。
「じ、陣平ちゃん」
「どうすりゃいいんだ、コレ」
つい先程まで猫にまみれていた二人の男は、急遽近くのファミリーレストランへの入店を決めたのだった。
小さな溜息。そういえばこの人は電車というものが苦手であった、と伊達は遅れて思い出した。どの時間も空いているとは言い難い都心の公共交通機関にはあまり良い記憶がないのだと、まだ幼さの残るいつかの蝶野が言っていた記憶がある。
壁際の一角に誘導して周囲からの壁になるのは、かつて風羽が当然のようにやっていたことであるが、その風羽もあまり電車を好んではいなかった。二人が運転免許を取ったことで、自然と足が遠退くようになったのは当然とも言える変化だっただろう。今回は蝶野の車が伊達の実家に置いてあるというタイミングであったために電車移動であった。
「鍵、よかったのかよ」
「……キーホルダーは良くなかった、かも」
わずかに俯いて呟いた蝶野に、伊達はなんとなくズレた返答であることを指摘しなかった。合鍵につけられていた猫のキーホルダーも、あの合鍵も、そもそもの持ち主は――――。
「……至、怒るかな」
まだ、その存在の喪失の傷は、癒えてなどいない。
「松田なら粗末には扱わねえよ」
だから、そこは大丈夫だろ。伊達の言葉に蝶野が曖昧に笑う。――別にどうしたいとかじゃなくて、ただ、笑っててほしいんだよ。深刻そうな、大真面目な顔をして言った松田が指し示す蝶野の表情がこれでないことだけは、伊達にも想像がつく。
電子パネルに降車駅を表示した電車が停止する。ゆっくりと開く扉、行き交う人々。電車を降りる蝶野の隣に風羽至がいない違和感が、あまりにもあった。
へらりと、蝶野が笑う。
家に着くまでの道のりに話した他愛無い会話は、玄関を潜ってすっかり忘れてしまったのに、寂しげな表情ばかりは鮮明に蘇る。
「あの時の松田さ。至なら、もっとちゃんと止めてやれたんだろうな」
後悔。喪失感。まだまだこの人の中で、風羽至は呼吸をしている。
「あれは、蝶野さんにしかできなかっただろ」
拳を振った時点で松田の謹慎処分は決まっていたようなものだ。責任の所在は松田にある。
「あの子、意外とアツいよな」
あの子。柔らかに紡がれた、まるでまだ幼い相手への呼称に苦笑いした。数えではもう二十三だぞ。そう言えばきっとこの人は「若えなあ」と笑うことだろう。
松田辺りは子供扱いするなと憤るだろうが、かつてから年上の頼れる相手であった伊達としてはあまり気になるところではない。というよりは、己の過去を思い出して懐かしむような空気でいて、強制することも頭ごなしに叱るようなこともなく対等の人間として話に耳を傾けてくれる大人だったという事実が大きい。勿論、いつまでも子供扱いでは反発したくもなるものだが、その手の線引きはむしろ風羽の方が明白で、歳の近い近所の兄のようであったと記憶している。蝶野のそれは、言うなれば単純な事実の羅列であり、一定の距離感を保って近付ききれない遠さがもどかしかったことも覚えているし、それをいつもひょいと飛び越えていく風羽が羨ましくもあった。
要するに、松田の「ずるい」という発言はつまり、幼少期の伊達が風羽に抱いたそれと極めて似た感情であることを、伊達はなんとなく理解した。そしてその松田に対する蝶野の反応は間違いなく、そう、まず間違いなく、蝶野個人が気に入っているということの証左である。
松田の抱く感情と、蝶野の抱く感情が、同じベクトルに収まるか、というのは別問題として。
「応えてやらねえの?」
松田のこと。怪訝な顔で見上げた蝶野が目を逸らす。ゆっくりと目を閉じて小さく唸った蝶野はポケットの中の鍵を握り締めた。
「……可愛い後輩だと、思ってる」
言い聞かせるような声に伊達は蝶野をジッと見つめて言葉を待った。
「分かんねえんだよな。代わりなんて存在しないのに、至がいなくなったところに都合の良い代わりができたから手放したくないだけかもしれない」
家の場所も知らない後輩に至の合鍵を持たせて、過剰な信用を押し付けて。いい歳こいてなにやってんだろうな。自嘲気味に笑った蝶野がため息を溢す。
「でもそれってよ、大切にしたいってことだろ?」
「そうだよ。ちゃんと幸せでいてほしい。だから、今、応えるわけにはいかない」
それはもう答えなんじゃないか。父親と一緒にナタリーを紹介した日を思い出しながら、伊達はぐっと言葉を飲み込んだ。
なにせ隠せるはずもない曖昧にぼかした彼女との相談事に詮索もせずに見守ってくれていた義兄である。後悔のない選択をしてほしいとも、幸せになってほしいとも思っているし、大切に思い合える相手ができたのなら文句はない。けれど、松田に任せられるかと聞かれれば、警察学校時代を思い起こして素直に背中を押し切れないという思いもある。
(松田のあの悩みようは、信用してやるべきだとは思うんだが)
双方の態度と反応を見て、一線を引いて離れようとする蝶野に踏み込み切れない松田、という状態だろうか。記憶にある限り、決して我慢強い方ではない松田がよく堪えているものだと思わなくもない。嫌われたくない、という熱量は確かなものだろう。
「ほらアイツ、口も態度も悪ぃけど、あれで意外と周り見てるしツラ良いから人気あんだよ。そういう別に俺である必要もないような奴がさ、」
不意に蝶野の声が止まる。伊達がまじまじと見下ろしていると気まずそうに目を逸らした蝶野は「忘れる約束だった」照れくさそうにはにかんだ。
「忘れる約束?」
「そう。だから航くんにも内緒」
「へぇ……そりゃ松田も喜びそうだな」
主に、その顔を引き出せたことが。本人に伝えれば自分がこの場に立ち会えなかったことに不満を滲ませるのだろうけれど。
「でもよ、その約束、松田は覚えてんの?」
「言い出しっぺが忘れるか?」
「そりゃ時と場合によるだろ」
「確かに」
幾許か幼い声色で頷いた蝶野にくつくつと部屋の奥から笑い声が聞こえる。
「なんだ、親父。いたのか」
「随分な言い草じゃねえか」
楽しそうな父親に続いて顔を出した母親の姿に伊達航は目を丸くした。蝶野の様子を見るに、気付かなかったのが息子である自分だけであったことに首の裏を掻く。
どこか気まずそうにしながらも、多忙の中で久し振りに集まった家族の風景に蝶野は相好を崩した。
家族団欒とは、良いものである。
「アンタの行くとこまで」
困惑と呆れを内包した蝶野の声に躊躇いなく即答した松田は、苦笑いを浮かべる伊達を半目で見上げる。言うまでもなく、その眼差しにはありありと不満が滲み出ていた。
「航くんの実家まで着いて来んの? やめろよ」
「えぇっ!? じゃあそのまま泊まる予定だったりしますか?」
「……? そうだよ。昔から世話んなってるし」
チッ。多少の距離があっても聞き取れるようなハッキリとした舌打ちが松田から発せられる。
「おい、なにに怒ってんだよ」
わずかに振り向いて苦笑いした蝶野からあからさまに目を逸らした松田はぶっきらぼうに「別に」とだけ答えるとサングラスで目元を隠した。どうやら本当に不満かつ、流石に伊達の実家にまで押しかける気はないらしい幼馴染の様子に萩原は肩を竦める。
恐らく松田の本心としては、警察学校の同期である伊達の実家に押しかけること自体には躊躇いがないのだろうが、蝶野からシンプルな拒否を示されたことが大きいのだろう。嫌われたくない、というのは切実な感情らしい。
「……ズリィ」
なにが。即答の割に困惑した様子で片眉を下げた蝶野に萩原が答える。
「俺も蝶野先輩とお泊まりしたかった〜ってジェラってんすよ。ね、陣平ちゃん」
「ハァ!? 別に、」
図星に動揺した松田が声を上げれば、萩原はまるで代弁してあげましたと言わんばかりのとびきりのウィンクをして見せた。舌打ちした松田は訝しげな視線を向ける蝶野に気が付き目を泳がせる。
「っ、そんなんじゃ……ない、ことも、ねぇけど」
聞いているのかいないのか、曖昧な返事をした蝶野はポケットから幾つかの鍵を取り出した。一つのカラビナに繋がれた複数の鍵と、鍵に付けられたキーホルダーが高い音を立てる。以前見かねたらしい機動隊の誰かがキーケースを贈っていたような気もするが、当の本人は「至にもらったのもまだ開けてないんだよな」とぼやいていたあたり、性に合わないのだろう。ぼんやりと蝶野を眺める松田の目の前に鍵が差し出される。反射で受け取った松田の手の中で、銀色の鍵と鈴の付いた黒猫のキーホルダーが音を立てる。
「……なんすか」
「合鍵」
「、ハァ!? アンタ、」
何考えてんだよ。言いかけて閉口した松田は鍵を握り込んだ。くつくつと笑った蝶野は「これ以上着いて来んなよ」ひらりと手を振って駅の喧騒の中に吸い込まれていく。萩原は処理の追いつかない松田が呆然とその背中を見つめ続けている姿を眺めながら、松田と同様に激しく動揺した。
「じ、陣平ちゃん」
「どうすりゃいいんだ、コレ」
つい先程まで猫にまみれていた二人の男は、急遽近くのファミリーレストランへの入店を決めたのだった。
小さな溜息。そういえばこの人は電車というものが苦手であった、と伊達は遅れて思い出した。どの時間も空いているとは言い難い都心の公共交通機関にはあまり良い記憶がないのだと、まだ幼さの残るいつかの蝶野が言っていた記憶がある。
壁際の一角に誘導して周囲からの壁になるのは、かつて風羽が当然のようにやっていたことであるが、その風羽もあまり電車を好んではいなかった。二人が運転免許を取ったことで、自然と足が遠退くようになったのは当然とも言える変化だっただろう。今回は蝶野の車が伊達の実家に置いてあるというタイミングであったために電車移動であった。
「鍵、よかったのかよ」
「……キーホルダーは良くなかった、かも」
わずかに俯いて呟いた蝶野に、伊達はなんとなくズレた返答であることを指摘しなかった。合鍵につけられていた猫のキーホルダーも、あの合鍵も、そもそもの持ち主は――――。
「……至、怒るかな」
まだ、その存在の喪失の傷は、癒えてなどいない。
「松田なら粗末には扱わねえよ」
だから、そこは大丈夫だろ。伊達の言葉に蝶野が曖昧に笑う。――別にどうしたいとかじゃなくて、ただ、笑っててほしいんだよ。深刻そうな、大真面目な顔をして言った松田が指し示す蝶野の表情がこれでないことだけは、伊達にも想像がつく。
電子パネルに降車駅を表示した電車が停止する。ゆっくりと開く扉、行き交う人々。電車を降りる蝶野の隣に風羽至がいない違和感が、あまりにもあった。
へらりと、蝶野が笑う。
家に着くまでの道のりに話した他愛無い会話は、玄関を潜ってすっかり忘れてしまったのに、寂しげな表情ばかりは鮮明に蘇る。
「あの時の松田さ。至なら、もっとちゃんと止めてやれたんだろうな」
後悔。喪失感。まだまだこの人の中で、風羽至は呼吸をしている。
「あれは、蝶野さんにしかできなかっただろ」
拳を振った時点で松田の謹慎処分は決まっていたようなものだ。責任の所在は松田にある。
「あの子、意外とアツいよな」
あの子。柔らかに紡がれた、まるでまだ幼い相手への呼称に苦笑いした。数えではもう二十三だぞ。そう言えばきっとこの人は「若えなあ」と笑うことだろう。
松田辺りは子供扱いするなと憤るだろうが、かつてから年上の頼れる相手であった伊達としてはあまり気になるところではない。というよりは、己の過去を思い出して懐かしむような空気でいて、強制することも頭ごなしに叱るようなこともなく対等の人間として話に耳を傾けてくれる大人だったという事実が大きい。勿論、いつまでも子供扱いでは反発したくもなるものだが、その手の線引きはむしろ風羽の方が明白で、歳の近い近所の兄のようであったと記憶している。蝶野のそれは、言うなれば単純な事実の羅列であり、一定の距離感を保って近付ききれない遠さがもどかしかったことも覚えているし、それをいつもひょいと飛び越えていく風羽が羨ましくもあった。
要するに、松田の「ずるい」という発言はつまり、幼少期の伊達が風羽に抱いたそれと極めて似た感情であることを、伊達はなんとなく理解した。そしてその松田に対する蝶野の反応は間違いなく、そう、まず間違いなく、蝶野個人が気に入っているということの証左である。
松田の抱く感情と、蝶野の抱く感情が、同じベクトルに収まるか、というのは別問題として。
「応えてやらねえの?」
松田のこと。怪訝な顔で見上げた蝶野が目を逸らす。ゆっくりと目を閉じて小さく唸った蝶野はポケットの中の鍵を握り締めた。
「……可愛い後輩だと、思ってる」
言い聞かせるような声に伊達は蝶野をジッと見つめて言葉を待った。
「分かんねえんだよな。代わりなんて存在しないのに、至がいなくなったところに都合の良い代わりができたから手放したくないだけかもしれない」
家の場所も知らない後輩に至の合鍵を持たせて、過剰な信用を押し付けて。いい歳こいてなにやってんだろうな。自嘲気味に笑った蝶野がため息を溢す。
「でもそれってよ、大切にしたいってことだろ?」
「そうだよ。ちゃんと幸せでいてほしい。だから、今、応えるわけにはいかない」
それはもう答えなんじゃないか。父親と一緒にナタリーを紹介した日を思い出しながら、伊達はぐっと言葉を飲み込んだ。
なにせ隠せるはずもない曖昧にぼかした彼女との相談事に詮索もせずに見守ってくれていた義兄である。後悔のない選択をしてほしいとも、幸せになってほしいとも思っているし、大切に思い合える相手ができたのなら文句はない。けれど、松田に任せられるかと聞かれれば、警察学校時代を思い起こして素直に背中を押し切れないという思いもある。
(松田のあの悩みようは、信用してやるべきだとは思うんだが)
双方の態度と反応を見て、一線を引いて離れようとする蝶野に踏み込み切れない松田、という状態だろうか。記憶にある限り、決して我慢強い方ではない松田がよく堪えているものだと思わなくもない。嫌われたくない、という熱量は確かなものだろう。
「ほらアイツ、口も態度も悪ぃけど、あれで意外と周り見てるしツラ良いから人気あんだよ。そういう別に俺である必要もないような奴がさ、」
不意に蝶野の声が止まる。伊達がまじまじと見下ろしていると気まずそうに目を逸らした蝶野は「忘れる約束だった」照れくさそうにはにかんだ。
「忘れる約束?」
「そう。だから航くんにも内緒」
「へぇ……そりゃ松田も喜びそうだな」
主に、その顔を引き出せたことが。本人に伝えれば自分がこの場に立ち会えなかったことに不満を滲ませるのだろうけれど。
「でもよ、その約束、松田は覚えてんの?」
「言い出しっぺが忘れるか?」
「そりゃ時と場合によるだろ」
「確かに」
幾許か幼い声色で頷いた蝶野にくつくつと部屋の奥から笑い声が聞こえる。
「なんだ、親父。いたのか」
「随分な言い草じゃねえか」
楽しそうな父親に続いて顔を出した母親の姿に伊達航は目を丸くした。蝶野の様子を見るに、気付かなかったのが息子である自分だけであったことに首の裏を掻く。
どこか気まずそうにしながらも、多忙の中で久し振りに集まった家族の風景に蝶野は相好を崩した。
家族団欒とは、良いものである。