いわゆる魂の双子だったのだと思う。息ができないほどに苦しくて、一つひとつの喪失を味わいながら、それでも呼吸を重ねていく。
目が覚めて新着メールがないことに、出勤して姿がないことに二度と会えない事実を思い知り、知らず嗅ぎ慣れた煙草の臭いを探して落胆を覚える。その死を受け入れるにはまだまだ時間が足りなくて、けれど何一つ変わりなく時間は流れていく。肺に取り込んだ煙を吐き出し、白く霞む視界をゆっくりと閉じた。
今日も生きている。望まれているのか分からないまま、浅く短い眠りを繰り返しながら。かつて眠れない夜はどう過ごしていただろうか。無意識で指先が選んだ連絡先から告げられる自動音声に息を吐く。安眠へと誘う幼馴染の声は、もう聞こえない。
──思えばよく眠れたのだ。酔い潰れて離れなかった後輩の腕の中は。
「……せんぱいいいにおいする。すき、すきです、せんぱい。おれじゃだめすか」
果たして、あの舌足らずの睦言を彼は覚えているだろうか。メール画面を立ち上げて体調を伺いつつ、拘束から抜け出そうとして噛み付かれた首筋がじわりと痛む。
目覚めてからなんとはなしに余計な世話を焼いてしまったが、そそくさと立ち去って無かったことにしてしまった方が良かったのかもしれない。何の痕跡も残さずに、酩酊した脳が見せた幻覚として。
(まぁ、覚えてなけりゃなかったことで)
蝶野は欠伸をしながら珈琲を淹れると大きく伸びをした。元より好んではいないが、なんだかんだと理由を付けて押し付けられたインスタントのそれは、相手が珈琲好きであれば喜ばれた品種のものだっただろう。スプーン二杯の砂糖と牛乳を混ぜ込み時間を確認する。出勤時刻まではあと一時間弱。
カチカチとメールを作成して、逡巡の後に送信ボタンを押し込んだ。
この連絡先も、思い出してみれば酔い潰れた松田に押し負けてのものだった。
随分と、絆されている。自分はそこまで単純な奴だっただろうかと考えて、ぶすくれた顔で風羽と言い合う松田の姿が蘇った。言い合うといっても口喧嘩のような苛烈さや怒気よりも、拗ねる子供と宥める親のような空気であったことを記憶している。
その様子は、松田に対して優秀ではあるが、喧嘩っ早く態度も口も悪いのだと語った鬼塚へ、平然と「大型の猫のような子犬ですよ」と返した風羽からもよく分かる。本人が聞けば噛みつきそうな比喩であるが、ポメラニアンや豆柴と言ってみても結果が変わりそうにない以上、それ以外の言葉はないだろう。
怪訝な顔をしてから咳払いで気を取り直した鬼塚は萩原の話題を出し、そして同じく玉砕されたのだ。最終的には「どちらも可愛い後輩に違いない」「手の掛からない子が良い子というわけではない」「鬼塚さんも随分と気に入ってるじゃないですか」というところで決着がついていたはずである。
「……可愛い後輩、ね」
蝶野はちびちびと珈琲を啜って溜息を吐いた。
暗いサングラスで隠した猫目に真っ直ぐに通った鼻梁、不満がちに閉ざされた口は、幼馴染の前やお得意の解体中には弧を描く。その気を許した相手にのみ見せる幼い表情も相俟って、機動隊の女子隊員や他課の女性職員からの人気は高かった。
事実、落ち着いた様子で周囲に一定値の関心がなく、整った容姿は場所を問わず否応なく人目に留まる。必然的に、ひとたび恋のライバルともなれば戦わずして諦める男も多いことだろう。
そんな引く手数多を体現したような男が、よりにもよって。
マグカップの中身を飲み干した蝶野は再度溜息を零して携帯を手に取った。毎日届いていたメールは来ていない。来るはずもない新着メールを期待している自分に気付いた蝶野は思わず苦笑いをして奥歯を噛んだ。
全部悪い夢で、タチの悪い冗談や悪戯だったと笑い飛ばしてほしかった。瞼を開けば醒めて、やるはずもない悪ふざけが過ぎたと目の前に現れてくれたのなら、どれだけ良かったことだろう。
「ハァ、出勤出勤」
マグカップを手早く洗って片付けた蝶野は着慣れた隊服で寮を後にした。近く、自宅に転居する予定だ。
いつもと変わらない日常が、かけがえのない一人を取りこぼした状態で過ぎていく。独りで眠る方法すら、分からないままにして。
表情に明らかな不満を宿した松田に吹き出したのは幼馴染である萩原研二だった。
「先輩には会えた?」
「いや……」
聞き慣れた朗らかな声に松田が首を横に振る。目的の人物は後ろ姿すら見かけていなかった。
「俺もまだ会ってないんだよね。もう来てるはずだけど」
「また誰かに捕まってんだろ」
「ジェラっちゃう?」
ニヤニヤと揶揄うような素振りの萩原に眉を顰めた松田は呆れた様子で「誰が。なんで」と切り返し、茶化すように「陣平ちゃんたら照れ屋なんだから」と背中を叩かれ当惑した。
「先輩のこと好きなんでしょ」
「バッ……、ハァ!? 何言ってんだよ、大体あの人は────」
あの人は。
よく似た美人姉弟である萩原とその姉を置いても遜色ない美人であり──いわゆる萩原も蝶野も言葉の一般論として女顔という意味になるのだが、両者とも言動の節々は悔しいことに格好良いと言わざるを得ない自慢の幼馴染と、自慢の先輩である。
ちなみに萩原の姉については、脳天から雷を受けたような初恋と、苦い失恋の記憶がついて回る。現に顔を合わせれば口を突いて出る挨拶のような告白と、まるで相手にされない玉砕がワンセットとして成り立っていた。
松田の初恋は間違いなく、彼女である。その恋心を前に雑音でしかなかった同級生や先輩、後輩からの告白を撥ね除け、時に泣かれたりなどもした。それすらも受け流していれば薄情者と揶揄されたが、萩原やどこからか初恋事情を聞きつけた女子生徒の影響か、次第に告白の回数自体が減っていった。
なにせ相手は隣県に住み、学校も異なる幼馴染の姉という年上の美人で、ことごとく玉砕されているというおまけ付き。その整った容姿で相手にもされていないことは多く男子生徒の同情を買い、真っ直ぐに一人だけを見る直向きさは女子生徒から好感と同時に相手への羨望が湧いた。
果たして、いかほどの女かと。
その結果として松田は人知れず女の情報網に恐れ入った反面、事実である恋慕が周知されたことで面倒事が減り、ようやく訪れた平和な学校生活に感謝すら抱いていたのだが。
ゆるりと、松田が頭を振る。
「……あの人は。」
絵画のように綺麗で、嘘みたいに格好良い人だった。
始まりは公園のベンチ。文庫サイズの小説本を読んで待ち人の到着を待つその人と、舞い落ちる花弁の景色は未だに記憶に焼き付いて離れない。──綺麗な花弁をかき集めてばら撒いたことさえも。他人のことなど萩原とその姉以外、興味もなかったというのに。
あの人に桜はよく似合う。儚くて綺麗だから。でも、どうせなら蒲公英の方がいい。本と目線の間に千切った黄色の花を押し出して、別に欲しくもなかったが視界の端に映った栞が欲しいと言った。困ったような笑みで物々交換に応じてくれたことも覚えているし、萩原に借りた傘を押し付けて雨の中を走って帰ったこともあった。儚いばかりかと思えば子供の壁となり、自分より大きな男を転がして検挙に繋げる勇猛さには舌を巻いたと同時、自らが子供という枠組みに入る事実に歯噛みした。名前はついに、一度も聞かなかったけれど。
その人への感情は、恋慕というより男の憧れに近い、憧憬で、あるはずだ。
閉口して首を横に振った松田に萩原が訝しげな視線を向ける。
「……ただ少し、頼られてーとは、思ってる」
曖昧な台詞は萩原の不信を誘ったようであったが、好奇心が上回ったのかキラリと目を輝かせた。
「それって、」
「っあぁ、クソ! もうこの話は終いだ、終い。これ以上なんも出ねぇーっつの!」
「えぇ! 陣平ちゃんのケチー!」
「はいはい。で、お前はいつまでサボってんだよ」
「サボりじゃないって! もう! 俺は相手が誰でも陣平ちゃんの応援してるって言ってんの!」
「へーへー、そいつぁありがてェこって」
ぷこぷこと怒り出した萩原から逃げるように松田は足を進めた。後ろから萩原が追ってくる気配はない。松田が人知れず息をついた、その直後。
「はよ。よく眠れたか?」
今朝振りに顔を見合わせた蝶野の何食わぬ態度に松田は面食らった。数拍遅れて挨拶を絞り出した松田は所在無さげに目を泳がせる。
「どうした、顔色悪いぞ」
「……い、え。どうも、しねぇスけど」
今朝のことはすべて夢だったのではないかと誤認するほどに普段通りの様子に松田は思わずメールの受信画面を確認した。目覚めてからのやり取りがすべて残っている。
ぺたりと、頬に自分のものではない熱が触れた。それが目の前の男の手であると気付いた瞬間、顔に熱が集まった。心配気に下がった眉尻と離れかけた体温に慌てて手を捕まえる。完全に無意識であった松田は怪訝そうな瞳に言葉を詰まらせた。松田の記憶上、蝶野はスキンシップの多い人ではなかったはずだ。
「アンタこそ今日はやけにベタベタするじゃねぇか」
「なんも覚えてねえんだな」
「ッえ、」
動揺に緩んだ松田の手の隙間から、蝶野の手がするりと逃げる。何事もなかったかのように当直室へ向かうらしいその人の、凛とした雰囲気を壊すくるりと癖の付いた後ろ髪が、なぜだかどうしようもなく愛おしいもののように見えて。
「先輩」
詰め寄った松田は珍しく跳ねた一束の髪に指先を絡ませた。
「可愛いことになってますよ」
指通りの良い頭髪を手櫛で整えて、強固な意志を持った寝癖を隠すように周りの髪を重ねて埋める。
「……お前のせいだろ」
じっとりとした視線で呆れたように言われた松田はピタリと動作を止め、やはり遠ざかる背を呆然と見つめた。なにせ昨日の記憶は消し飛んでいる。その中でぼんやりと、誰かの体温を抱き込んでいたような感覚は、確かにあったのだけれど。
ゆっくりと目瞬きした松田は再度ひょこりと表に出た蝶野の寝癖を視界に捉えながら訓練場に続いた。中には既に他の当直当番と訓練中の隊員の姿があり、いずれも蝶野の到着に背筋を伸ばして挨拶を飛ばす。ニヤニヤと面白そうな萩原と目が合った松田はそれとなく視線を外した。寝癖と先程の台詞のお陰で思考回路に余裕がない。見事に言葉の一つで松田の脳内を埋め尽くした蝶野が挨拶を返してすぐ、機動隊訓練は再開した。訓練もなく本来顔を出す必要のない当直勤務の隊員が訓練場にいたのは、単に蝶野が一度そちらに顔を出すからだろう。しばらく訓練を見守った蝶野の足は自然と当直室へと向かい松田や該当の隊員はその後に続いた。そして今日の外出者は門限を少し越えて戻る者が多いだろうことを予測した松田は欠伸をこぼす。
「待機中に寝るなよ?」
「寝ねーっつの。アンタの方が眠いんじゃねえの?」
「そうだな。大してやることもねえし。松田の肩でも借りるかな」
アンタもそういうこと言うんだな。普段であればそう返せていただろう蝶野のあっけらかんとした肯定に松田は言葉を詰まらせた。
「……俺のせいで寝れてねーとか、ありますか」
「ねえよ。また添い寝してやってもいい程度にはな」
「そいっ!? なっ、何言ってんだアンタ」
周囲を確認して顰めていた松田の声が動揺に裏返った。それは昨夜、自分が抱き着いて寝てしまったから仕方なく腕の中で一夜を過ごしたと言っているようにも聞こえる。幸か不幸か、嘘か本当か、存外に寝心地は悪くなかったようであるが。
眉間に皺を寄せた松田に蝶野はくつくつと笑った。
「……なに笑ってんだよ」
「記憶飛ぶまで飲むのが悪いだろ」
至極真っ当な言葉に口をへの字にした松田はしかし、湧き上がらない怒りとは反対に、煩く脈打つ心臓に眉間の皺を深める。次第に体温の上昇までもを自覚して、どうやら誰かを抱き込んでいた感覚が現実らしかったことに狼狽えた。そんなじわじわと変わる松田の様子を、蝶野はまるで微笑ましいものを見るような目で見つめていた。
「拗ねんなよ」
顔を逸らした松田の黒髪をわしゃわしゃと撫で回した蝶野はむにりと頬を摘む。直後、松田がぺちりとその手を叩き落とした。
「アンタ俺のこと好きだろ」
「そりゃ、可愛い後輩だからな」
蝶野の当然と言わんばかりの即答が、松田にはどうしようもなく面白くなかった。更にそこから、なんと沈んだ日が登った勤務の終わりまで、面白味に欠ける時間が延々と続き、ついに寮へと帰る道すがら、付近から聞こえた萩原の声に足が止まる。
「昨日あのあと大丈夫でした? 陣平ちゃん、いつもはあんなに酔わないんすけど」
酔っても口だけの絡み酒だったし、記憶がないなんてのは初めてで。その声は心配半分、好奇心半分といったような塩梅だった。盗み聞きとなることに気は咎めたが、松田の両足は床に張り付いたまま動かない。まるで強力な磁石に引き寄せられているようだった。
「大丈夫だろ。問題はあったけど」
「問題?」
「……記憶、飛んでんだろ」
「あぁ、そういう」
陣平ちゃんが何かやらかしたのかと思いました。安堵を宿した萩原の声に「覚えてたら面白かったんだろうけどな」何とも形容しがたい蝶野の声が聞こえる。松田は静かに息を吐き出しながら天井を見上げた。自分の犯した失態を知りたい感情と知らないままでいたい感情とがせめぎ合っている。
しかしいざ自分で尋ねることができるかと自問してみれば、とてもそんなことはできそうにない。ならばと萩原のもう一声を期待し、蝶野のはぐらかすような笑い声に思惑の失敗を悟る。
「じゃあ一つだけ! 本当に、襲われてたりしませんよね?」
ひっそりと覗き見た蝶野の渋い顔に松田の呼吸が止まる。チラリと、蝶野の視線が松田の方向に動き、松田は反射的に身を隠した。
「…………お前が心配してるようなことはねえよ、多分」
「多分て!」
蒼褪めた萩原に詰め寄られた蝶野が後退る。意を決した松田は物陰から歩み出て蝶野を捕獲した。
「……セクハラだぞ」
「昨日の俺は?」
グ、と言葉を詰まらせた蝶野が目を逸らす。
「やっぱ昨日の、アンタだよな」
「覚えてんなら傷害で詰めてもいいぞ」
「──は? 痛っっってぇな! んだよ萩原!」
松田の頭にチョップを食らわせた萩原は蝶野を捕らえる松田の腕を強引に引き剥がして二人の間に割り込んだ。松田が萩原を睨み付ける。その後ろで蝶野はのんびりと欠伸を零した。
「陣平ちゃんが先輩のこと大好きなのは分かってるけどさぁ。ちょ〜っと冷静になった方がいいんじゃない?」
「どっからどー見ても俺は冷静だろ!」
宥めるような萩原の言葉に苛立った松田の声が意を唱える。
恐らく十人に聞いて十人全員が萩原の肩を持つだろう松田の言葉を聞き流しながら時間を確認した蝶野はぼんやりと今日の予定を頭の中に浮かべた。
「……悪い、一回寝てから聞くわ」
眉間に皺を寄せて小さく唸った蝶野はひらひらと手を振ると萩原と松田の頭を一撫でして寮へと歩き出す。直後、一時的に口論を止めた二人はしばらく蝶野の後を追って歩き、はたと萩原が足を止めた。つられて松田も足を止める。
「俺帰っちゃダメじゃん!」
松田は驚愕の表情で言った萩原に呆れた眼差しを向けた。
「さっさと戻れよ。遅刻したら怒られんぞ」
「そうだけどさぁ……俺が目ぇ離したら陣平ちゃんがまた何か仕出かすかもしれないし」
「……酔っぱらってもねーってのに何の心配してんだよ」
余計なお世話だっつの。半目で吐き捨てた松田は追い払うように片手を振ると欠伸を零して蝶野と同じ方向に進み直した。ついさっきまで二、三歩ほどの距離にあった背中は随分と遠ざかっている。松田は蝶野の後ろ姿から余程眠く、関心も向かなかったのだろうと一人納得しながら「信じてるからな」という萩原の声に手を振った。
恐らく萩原の心配は酔っ払った同期かつ幼馴染の相手を先輩──と呼び慕ってはいるが実際には上司である蝶野に押し付けてしまった負い目も相俟ってのことだろう。そうして記憶を飛ばした当てにならない幼馴染の動向を蝶野に確認し、想定していたものとは異なる反応に動揺が生じた。更にその上で蝶野への好意をはっきりと否定しなかったどころか、ある意味で全面肯定したとも取れる松田の言動に納得と一抹の不安が重なってしまったのである。
しかし松田に力押しで有耶無耶にしようとする気があれば、萩原との幼馴染関係は続いていなかったはずであり、現に拗れることもなく続いている関係は、松田の一途で手順を踏み間違えない真っ当性にもあった。例え、そこに酒の力があったとはいえ。
むしろ酒の力を借りた上での暴走となれば、その時の言動は日頃口にしない本心であった可能性も高い。
「本当に大丈夫かぁ?」
不安だらけの萩原の声はわずかに騒がしい廊下の雑音に混ざって霧散した。
目が覚めて新着メールがないことに、出勤して姿がないことに二度と会えない事実を思い知り、知らず嗅ぎ慣れた煙草の臭いを探して落胆を覚える。その死を受け入れるにはまだまだ時間が足りなくて、けれど何一つ変わりなく時間は流れていく。肺に取り込んだ煙を吐き出し、白く霞む視界をゆっくりと閉じた。
今日も生きている。望まれているのか分からないまま、浅く短い眠りを繰り返しながら。かつて眠れない夜はどう過ごしていただろうか。無意識で指先が選んだ連絡先から告げられる自動音声に息を吐く。安眠へと誘う幼馴染の声は、もう聞こえない。
──思えばよく眠れたのだ。酔い潰れて離れなかった後輩の腕の中は。
「……せんぱいいいにおいする。すき、すきです、せんぱい。おれじゃだめすか」
果たして、あの舌足らずの睦言を彼は覚えているだろうか。メール画面を立ち上げて体調を伺いつつ、拘束から抜け出そうとして噛み付かれた首筋がじわりと痛む。
目覚めてからなんとはなしに余計な世話を焼いてしまったが、そそくさと立ち去って無かったことにしてしまった方が良かったのかもしれない。何の痕跡も残さずに、酩酊した脳が見せた幻覚として。
(まぁ、覚えてなけりゃなかったことで)
蝶野は欠伸をしながら珈琲を淹れると大きく伸びをした。元より好んではいないが、なんだかんだと理由を付けて押し付けられたインスタントのそれは、相手が珈琲好きであれば喜ばれた品種のものだっただろう。スプーン二杯の砂糖と牛乳を混ぜ込み時間を確認する。出勤時刻まではあと一時間弱。
カチカチとメールを作成して、逡巡の後に送信ボタンを押し込んだ。
この連絡先も、思い出してみれば酔い潰れた松田に押し負けてのものだった。
随分と、絆されている。自分はそこまで単純な奴だっただろうかと考えて、ぶすくれた顔で風羽と言い合う松田の姿が蘇った。言い合うといっても口喧嘩のような苛烈さや怒気よりも、拗ねる子供と宥める親のような空気であったことを記憶している。
その様子は、松田に対して優秀ではあるが、喧嘩っ早く態度も口も悪いのだと語った鬼塚へ、平然と「大型の猫のような子犬ですよ」と返した風羽からもよく分かる。本人が聞けば噛みつきそうな比喩であるが、ポメラニアンや豆柴と言ってみても結果が変わりそうにない以上、それ以外の言葉はないだろう。
怪訝な顔をしてから咳払いで気を取り直した鬼塚は萩原の話題を出し、そして同じく玉砕されたのだ。最終的には「どちらも可愛い後輩に違いない」「手の掛からない子が良い子というわけではない」「鬼塚さんも随分と気に入ってるじゃないですか」というところで決着がついていたはずである。
「……可愛い後輩、ね」
蝶野はちびちびと珈琲を啜って溜息を吐いた。
暗いサングラスで隠した猫目に真っ直ぐに通った鼻梁、不満がちに閉ざされた口は、幼馴染の前やお得意の解体中には弧を描く。その気を許した相手にのみ見せる幼い表情も相俟って、機動隊の女子隊員や他課の女性職員からの人気は高かった。
事実、落ち着いた様子で周囲に一定値の関心がなく、整った容姿は場所を問わず否応なく人目に留まる。必然的に、ひとたび恋のライバルともなれば戦わずして諦める男も多いことだろう。
そんな引く手数多を体現したような男が、よりにもよって。
マグカップの中身を飲み干した蝶野は再度溜息を零して携帯を手に取った。毎日届いていたメールは来ていない。来るはずもない新着メールを期待している自分に気付いた蝶野は思わず苦笑いをして奥歯を噛んだ。
全部悪い夢で、タチの悪い冗談や悪戯だったと笑い飛ばしてほしかった。瞼を開けば醒めて、やるはずもない悪ふざけが過ぎたと目の前に現れてくれたのなら、どれだけ良かったことだろう。
「ハァ、出勤出勤」
マグカップを手早く洗って片付けた蝶野は着慣れた隊服で寮を後にした。近く、自宅に転居する予定だ。
いつもと変わらない日常が、かけがえのない一人を取りこぼした状態で過ぎていく。独りで眠る方法すら、分からないままにして。
表情に明らかな不満を宿した松田に吹き出したのは幼馴染である萩原研二だった。
「先輩には会えた?」
「いや……」
聞き慣れた朗らかな声に松田が首を横に振る。目的の人物は後ろ姿すら見かけていなかった。
「俺もまだ会ってないんだよね。もう来てるはずだけど」
「また誰かに捕まってんだろ」
「ジェラっちゃう?」
ニヤニヤと揶揄うような素振りの萩原に眉を顰めた松田は呆れた様子で「誰が。なんで」と切り返し、茶化すように「陣平ちゃんたら照れ屋なんだから」と背中を叩かれ当惑した。
「先輩のこと好きなんでしょ」
「バッ……、ハァ!? 何言ってんだよ、大体あの人は────」
あの人は。
よく似た美人姉弟である萩原とその姉を置いても遜色ない美人であり──いわゆる萩原も蝶野も言葉の一般論として女顔という意味になるのだが、両者とも言動の節々は悔しいことに格好良いと言わざるを得ない自慢の幼馴染と、自慢の先輩である。
ちなみに萩原の姉については、脳天から雷を受けたような初恋と、苦い失恋の記憶がついて回る。現に顔を合わせれば口を突いて出る挨拶のような告白と、まるで相手にされない玉砕がワンセットとして成り立っていた。
松田の初恋は間違いなく、彼女である。その恋心を前に雑音でしかなかった同級生や先輩、後輩からの告白を撥ね除け、時に泣かれたりなどもした。それすらも受け流していれば薄情者と揶揄されたが、萩原やどこからか初恋事情を聞きつけた女子生徒の影響か、次第に告白の回数自体が減っていった。
なにせ相手は隣県に住み、学校も異なる幼馴染の姉という年上の美人で、ことごとく玉砕されているというおまけ付き。その整った容姿で相手にもされていないことは多く男子生徒の同情を買い、真っ直ぐに一人だけを見る直向きさは女子生徒から好感と同時に相手への羨望が湧いた。
果たして、いかほどの女かと。
その結果として松田は人知れず女の情報網に恐れ入った反面、事実である恋慕が周知されたことで面倒事が減り、ようやく訪れた平和な学校生活に感謝すら抱いていたのだが。
ゆるりと、松田が頭を振る。
「……あの人は。」
絵画のように綺麗で、嘘みたいに格好良い人だった。
始まりは公園のベンチ。文庫サイズの小説本を読んで待ち人の到着を待つその人と、舞い落ちる花弁の景色は未だに記憶に焼き付いて離れない。──綺麗な花弁をかき集めてばら撒いたことさえも。他人のことなど萩原とその姉以外、興味もなかったというのに。
あの人に桜はよく似合う。儚くて綺麗だから。でも、どうせなら蒲公英の方がいい。本と目線の間に千切った黄色の花を押し出して、別に欲しくもなかったが視界の端に映った栞が欲しいと言った。困ったような笑みで物々交換に応じてくれたことも覚えているし、萩原に借りた傘を押し付けて雨の中を走って帰ったこともあった。儚いばかりかと思えば子供の壁となり、自分より大きな男を転がして検挙に繋げる勇猛さには舌を巻いたと同時、自らが子供という枠組みに入る事実に歯噛みした。名前はついに、一度も聞かなかったけれど。
その人への感情は、恋慕というより男の憧れに近い、憧憬で、あるはずだ。
閉口して首を横に振った松田に萩原が訝しげな視線を向ける。
「……ただ少し、頼られてーとは、思ってる」
曖昧な台詞は萩原の不信を誘ったようであったが、好奇心が上回ったのかキラリと目を輝かせた。
「それって、」
「っあぁ、クソ! もうこの話は終いだ、終い。これ以上なんも出ねぇーっつの!」
「えぇ! 陣平ちゃんのケチー!」
「はいはい。で、お前はいつまでサボってんだよ」
「サボりじゃないって! もう! 俺は相手が誰でも陣平ちゃんの応援してるって言ってんの!」
「へーへー、そいつぁありがてェこって」
ぷこぷこと怒り出した萩原から逃げるように松田は足を進めた。後ろから萩原が追ってくる気配はない。松田が人知れず息をついた、その直後。
「はよ。よく眠れたか?」
今朝振りに顔を見合わせた蝶野の何食わぬ態度に松田は面食らった。数拍遅れて挨拶を絞り出した松田は所在無さげに目を泳がせる。
「どうした、顔色悪いぞ」
「……い、え。どうも、しねぇスけど」
今朝のことはすべて夢だったのではないかと誤認するほどに普段通りの様子に松田は思わずメールの受信画面を確認した。目覚めてからのやり取りがすべて残っている。
ぺたりと、頬に自分のものではない熱が触れた。それが目の前の男の手であると気付いた瞬間、顔に熱が集まった。心配気に下がった眉尻と離れかけた体温に慌てて手を捕まえる。完全に無意識であった松田は怪訝そうな瞳に言葉を詰まらせた。松田の記憶上、蝶野はスキンシップの多い人ではなかったはずだ。
「アンタこそ今日はやけにベタベタするじゃねぇか」
「なんも覚えてねえんだな」
「ッえ、」
動揺に緩んだ松田の手の隙間から、蝶野の手がするりと逃げる。何事もなかったかのように当直室へ向かうらしいその人の、凛とした雰囲気を壊すくるりと癖の付いた後ろ髪が、なぜだかどうしようもなく愛おしいもののように見えて。
「先輩」
詰め寄った松田は珍しく跳ねた一束の髪に指先を絡ませた。
「可愛いことになってますよ」
指通りの良い頭髪を手櫛で整えて、強固な意志を持った寝癖を隠すように周りの髪を重ねて埋める。
「……お前のせいだろ」
じっとりとした視線で呆れたように言われた松田はピタリと動作を止め、やはり遠ざかる背を呆然と見つめた。なにせ昨日の記憶は消し飛んでいる。その中でぼんやりと、誰かの体温を抱き込んでいたような感覚は、確かにあったのだけれど。
ゆっくりと目瞬きした松田は再度ひょこりと表に出た蝶野の寝癖を視界に捉えながら訓練場に続いた。中には既に他の当直当番と訓練中の隊員の姿があり、いずれも蝶野の到着に背筋を伸ばして挨拶を飛ばす。ニヤニヤと面白そうな萩原と目が合った松田はそれとなく視線を外した。寝癖と先程の台詞のお陰で思考回路に余裕がない。見事に言葉の一つで松田の脳内を埋め尽くした蝶野が挨拶を返してすぐ、機動隊訓練は再開した。訓練もなく本来顔を出す必要のない当直勤務の隊員が訓練場にいたのは、単に蝶野が一度そちらに顔を出すからだろう。しばらく訓練を見守った蝶野の足は自然と当直室へと向かい松田や該当の隊員はその後に続いた。そして今日の外出者は門限を少し越えて戻る者が多いだろうことを予測した松田は欠伸をこぼす。
「待機中に寝るなよ?」
「寝ねーっつの。アンタの方が眠いんじゃねえの?」
「そうだな。大してやることもねえし。松田の肩でも借りるかな」
アンタもそういうこと言うんだな。普段であればそう返せていただろう蝶野のあっけらかんとした肯定に松田は言葉を詰まらせた。
「……俺のせいで寝れてねーとか、ありますか」
「ねえよ。また添い寝してやってもいい程度にはな」
「そいっ!? なっ、何言ってんだアンタ」
周囲を確認して顰めていた松田の声が動揺に裏返った。それは昨夜、自分が抱き着いて寝てしまったから仕方なく腕の中で一夜を過ごしたと言っているようにも聞こえる。幸か不幸か、嘘か本当か、存外に寝心地は悪くなかったようであるが。
眉間に皺を寄せた松田に蝶野はくつくつと笑った。
「……なに笑ってんだよ」
「記憶飛ぶまで飲むのが悪いだろ」
至極真っ当な言葉に口をへの字にした松田はしかし、湧き上がらない怒りとは反対に、煩く脈打つ心臓に眉間の皺を深める。次第に体温の上昇までもを自覚して、どうやら誰かを抱き込んでいた感覚が現実らしかったことに狼狽えた。そんなじわじわと変わる松田の様子を、蝶野はまるで微笑ましいものを見るような目で見つめていた。
「拗ねんなよ」
顔を逸らした松田の黒髪をわしゃわしゃと撫で回した蝶野はむにりと頬を摘む。直後、松田がぺちりとその手を叩き落とした。
「アンタ俺のこと好きだろ」
「そりゃ、可愛い後輩だからな」
蝶野の当然と言わんばかりの即答が、松田にはどうしようもなく面白くなかった。更にそこから、なんと沈んだ日が登った勤務の終わりまで、面白味に欠ける時間が延々と続き、ついに寮へと帰る道すがら、付近から聞こえた萩原の声に足が止まる。
「昨日あのあと大丈夫でした? 陣平ちゃん、いつもはあんなに酔わないんすけど」
酔っても口だけの絡み酒だったし、記憶がないなんてのは初めてで。その声は心配半分、好奇心半分といったような塩梅だった。盗み聞きとなることに気は咎めたが、松田の両足は床に張り付いたまま動かない。まるで強力な磁石に引き寄せられているようだった。
「大丈夫だろ。問題はあったけど」
「問題?」
「……記憶、飛んでんだろ」
「あぁ、そういう」
陣平ちゃんが何かやらかしたのかと思いました。安堵を宿した萩原の声に「覚えてたら面白かったんだろうけどな」何とも形容しがたい蝶野の声が聞こえる。松田は静かに息を吐き出しながら天井を見上げた。自分の犯した失態を知りたい感情と知らないままでいたい感情とがせめぎ合っている。
しかしいざ自分で尋ねることができるかと自問してみれば、とてもそんなことはできそうにない。ならばと萩原のもう一声を期待し、蝶野のはぐらかすような笑い声に思惑の失敗を悟る。
「じゃあ一つだけ! 本当に、襲われてたりしませんよね?」
ひっそりと覗き見た蝶野の渋い顔に松田の呼吸が止まる。チラリと、蝶野の視線が松田の方向に動き、松田は反射的に身を隠した。
「…………お前が心配してるようなことはねえよ、多分」
「多分て!」
蒼褪めた萩原に詰め寄られた蝶野が後退る。意を決した松田は物陰から歩み出て蝶野を捕獲した。
「……セクハラだぞ」
「昨日の俺は?」
グ、と言葉を詰まらせた蝶野が目を逸らす。
「やっぱ昨日の、アンタだよな」
「覚えてんなら傷害で詰めてもいいぞ」
「──は? 痛っっってぇな! んだよ萩原!」
松田の頭にチョップを食らわせた萩原は蝶野を捕らえる松田の腕を強引に引き剥がして二人の間に割り込んだ。松田が萩原を睨み付ける。その後ろで蝶野はのんびりと欠伸を零した。
「陣平ちゃんが先輩のこと大好きなのは分かってるけどさぁ。ちょ〜っと冷静になった方がいいんじゃない?」
「どっからどー見ても俺は冷静だろ!」
宥めるような萩原の言葉に苛立った松田の声が意を唱える。
恐らく十人に聞いて十人全員が萩原の肩を持つだろう松田の言葉を聞き流しながら時間を確認した蝶野はぼんやりと今日の予定を頭の中に浮かべた。
「……悪い、一回寝てから聞くわ」
眉間に皺を寄せて小さく唸った蝶野はひらひらと手を振ると萩原と松田の頭を一撫でして寮へと歩き出す。直後、一時的に口論を止めた二人はしばらく蝶野の後を追って歩き、はたと萩原が足を止めた。つられて松田も足を止める。
「俺帰っちゃダメじゃん!」
松田は驚愕の表情で言った萩原に呆れた眼差しを向けた。
「さっさと戻れよ。遅刻したら怒られんぞ」
「そうだけどさぁ……俺が目ぇ離したら陣平ちゃんがまた何か仕出かすかもしれないし」
「……酔っぱらってもねーってのに何の心配してんだよ」
余計なお世話だっつの。半目で吐き捨てた松田は追い払うように片手を振ると欠伸を零して蝶野と同じ方向に進み直した。ついさっきまで二、三歩ほどの距離にあった背中は随分と遠ざかっている。松田は蝶野の後ろ姿から余程眠く、関心も向かなかったのだろうと一人納得しながら「信じてるからな」という萩原の声に手を振った。
恐らく萩原の心配は酔っ払った同期かつ幼馴染の相手を先輩──と呼び慕ってはいるが実際には上司である蝶野に押し付けてしまった負い目も相俟ってのことだろう。そうして記憶を飛ばした当てにならない幼馴染の動向を蝶野に確認し、想定していたものとは異なる反応に動揺が生じた。更にその上で蝶野への好意をはっきりと否定しなかったどころか、ある意味で全面肯定したとも取れる松田の言動に納得と一抹の不安が重なってしまったのである。
しかし松田に力押しで有耶無耶にしようとする気があれば、萩原との幼馴染関係は続いていなかったはずであり、現に拗れることもなく続いている関係は、松田の一途で手順を踏み間違えない真っ当性にもあった。例え、そこに酒の力があったとはいえ。
むしろ酒の力を借りた上での暴走となれば、その時の言動は日頃口にしない本心であった可能性も高い。
「本当に大丈夫かぁ?」
不安だらけの萩原の声はわずかに騒がしい廊下の雑音に混ざって霧散した。