──十一月某日。
退院の翌日、翌々日と蝶野は急用という名目で休んだが、それが本人の申請というよりは上役からの気遣いであるだろうことを、多くの同僚が推測していた。
果たして、休暇から戻った蝶野は疲労を滲ませた顔で作り笑いを浮かべると「ごめん」と、一言だけ口にして、他は以前と変わった様子がない。虚勢を張っているのではないかという心配げな声を尻目に、萩原は彼の吸う煙草の銘柄が変わっていることに気が付いた。
「陣平ちゃん、蝶野先輩の煙草」
「あァ? ンなの誰が何吸ってても──」
囁く声の方向を睨み付けていた松田は、萩原の台詞に視線を移動させて言葉を飲み込んだ。銘柄が変わっている。それは先日、殉職した先輩がいつも吸っていたものだった。
ゆらりと、紫煙が燻る。禁煙しないとなあ。蝶野の近くから、聞き慣れた男の声が聞こえた。聞こえるはずだった。
あの、爆発までは。
人当たりが良く優秀で、慕われてもいた茶髪の機動隊員、風羽至の姿はどこにもない。先の事件で殉職した人間がそこに現れるはずもないが、思わず幻視してしまうほどに、彼らは行動を共にしていた。
当時のことを思い出してみても、整ってはいるもののどこか凡庸な容姿をした、けれど表情豊かで頼りやすい男と、端正な顔に傷跡を残す物静かで近寄り難い男の組み合わせは新人の間では殊更注目度が高かったようにも思う。
聞けば、二人は幼馴染の同期で、警察学校でも付かず離れずだったらしい。松田は自然と自分達や同班だった友人の姿を思い出し、それとなく意識の端に追いやった。あの中の誰かが殉職したとして、あの日あの現場にいた萩原が吹き飛んでいたとして、冷静でいられる自信はない。
けれど、蝶野瞬という先輩は自暴自棄になるわけでも、復讐心に駆られるわけでもなく、オイルライターを両手で握り直して呼吸を整え、平然と、淡々と、前を見据えていた。
つよい、人だと思う。例え虚勢だったのだとしても。
チラリとサングラス越しに萩原を盗み見た松田は煙草とライターを取り出した。カチ、カチと何度目かの押し込みで点った炎色に煙草を翳しながら息を吸う。
パチリ。煙草が音を立てる。
交友関係の広い風羽は当初の印象より警戒心が強かったし、冷徹そうな蝶野は交友が限定的なだけで、その実穏やかで柔らかい人だった。けれど端正な顔には一層目立つ傷跡と相俟って、美人の無表情というものは威圧感がある。最初の印象で損をするとは、よく言ったものだと思う。
傷跡の観点で言えば、ある日の着替え中、均整の取れた風羽の背中に大きく残るケロイドを目にしたときも、云い知れない衝撃が走ったことを覚えている。
思わず声を漏らした萩原に振り向いた二人は、慣れているのか大した関心もなさそうに聞き返すこともしなかった。人伝に聞いた話では、風羽の背中と蝶野の顔に残る傷跡は、幼少期に同じ事故で負ったものらしい。
その真相については未だ知るところにないが、二人の先輩はどちらも信用を置かれている優秀な人材であり、萩原と松田には、何かと彼らに構われていた自覚がある。
先の事件で殉職した風羽至と、風羽以外を生還させた蝶野瞬は松田にとってある種煩わしくもあったが、結局のところ無碍にはできなかった。それも、その言葉を聞くに値する実力と、有象無象ではない個人と向き合おうという意識があったからに他ならない。
紫煙を吐いた松田は無言で蝶野に歩み寄るとステンレスの灰皿に煙草を押し付けた。
「……どうした」
「どうもしねーけど」
煙を纏う落ち着いた蝶野の声音に松田はいつもの調子で答える。
視線を落とせば、灰皿を満たす煙草の本数が以前より少ない。蝶野は漠然と風羽の痕跡を辿りながら、手にしている煙草がフィルターの寸前まで燃え尽きていることに気がついた。ゆっくりと、灰皿に押し付けて揉み消す。
──煙草にかかる税金が増加し、分煙の波が高まり喫煙スペースが徐々に失われていく時代の流れに則るべきだっただろうか。幼馴染の、殉職を理由に。
「やめ時見失っちまったな」
松田に続いて徐に歩み寄ってきた萩原を眺めながら、蝶野はポツリと呟くように言った。
何の話ですか? 問い返そうとした萩原を出動要請が阻む。爆発の危険性を孕む不審物が発見されたという情報に爆発物処理班の隊員が動いた。今日の出動隊員には誰がいたかと脳内で隊員の顔を並べながら、手早く準備を整えて出動する。
場所は杯戸町のとある廃工場。度胸試しにと入り込んだ子供の後を追って足を踏み入れた近隣住民の男性が不審物を発見した。偶然にも現場付近を警邏していたことで一足先に現地に到着した捜査第一課特殊犯捜査係からの話によれば、小規模な連続爆破を起こしていた者の仕業と推測される。大方、先の爆発事件に触発されたのだろう。
「今日はやたらと慌ただしいな」
「米花で立て籠もり……と、要人警護もあったからな」
正確には、まだ現在進行形の業務であるが。松田のぼやきにサラリと返答した蝶野の手に二本のライターが現れる。咄嗟に自らのポケットを探った萩原と松田は非難にも似た落胆の声を上げる。
なんでだよ、馬鹿じゃねえの。言い放ちたい言葉を何となく飲み込んだ蝶野は対爆スーツの着用を促した。
「着るんすか~? あの暑苦しいやつ」
「嫌なら俺が解体してもいいんだがな」
「冗談ですって。現場指揮お願いしますよ」
果たして、そう言って着ていなかったのはどこの誰だったか。小さく溜息を吐きつつ防護服に身を包まれていく萩原を横目に松田に声を掛ける。
同じ廃工場の敷地内で確認された爆弾は、残念ながら一つではなかった。更に示唆された爆弾犯の情報からは廃工場の他にも爆弾が仕掛けられている可能性が高く、早急な対処が必要とされる。状況を理解してか否か、準備を整えて颯爽と爆弾解除に向かう新人二人の姿は何とも頼もしい。
処理班以外を爆弾の有効範囲から撤退させ、何時間にも感じられる束の間の張り詰めた空気の中、起爆装置と爆薬の切り離しに成功した旨の報告を受ける。次いで通信を遮断する冷却装置の中に爆弾を沈め、特科車輌に運び込んで一先ずのミッションコンプリート。防爆防護服の脱衣に手を貸す最中、緊急の入電を受け取った。
どうやら米花町で起きている立て籠もり事件の容疑者直々のご指名らしい。蝶野が承諾すると捜査一課の刑事がパトカーに乗り込むことを促す。
けたたましいサイレンと共に、恐らく最速の移動方法で送迎される事態に蝶野は人知れず苦笑いを零した。しかし人命が最優先、人の命に代わるものはない。
「んじゃまァ、良い子にしてろよ」
一つの任務を終えた萩原と松田の頭を撫でた蝶野がパトカーに乗り込む。見送るように、子供じゃない、という抗議の言葉が二つ飛んだ。
赤い光を煌めかせ、人間の耳を劈くサイレンが鳴り響く。一般車の横を通り抜けながら最速で立て籠もり現場に到着すれば、SITから手渡された通信機を装着した。
「葛城警部、状況説明をお願いします」
「急なお呼び立てですみません。お願いします、蝶野さん」
さらりと、緊迫を保ちつつ落ち着いた男の声で状況説明が続く。
配達員を装って侵入した立て籠もり犯がすべてのブラインドを下げて籠城。SITが揃ったところで別所に爆弾を仕掛けてあり、解除前に扉や窓を開ければ起爆するという入電があった。
しかし、その声はまるで用意された台本を読み上げるかのように覚束無く、怯えたように震えていた。そのため立て籠もり犯が何者かに脅されている可能性が浮上したという。扉も窓も開けられない現場に呼び寄せて諸共爆殺、という算段だろうか。
更に続けられた聞き覚えのない立て籠もり犯と人質の名前を聞きながら、蝶野は返していないライターの存在を思い出した。
程なくして現場に到着すれば、待っていましたと言わんばかりの出迎えを受け、丁寧に保管された犯行予告状の現物を手渡される。
「入電は固定電話からですか?」
「ええ、そのようです」
──立て籠もり現場は十七階、マンションは住人と管理者が持つカードキーで入り口の開閉を行うオートロック式である。立て籠もり事件が起きたため、当然ながらそのカードキーは警察の手にも渡っていた。
「……ベランダなら上からでも降りれそうですね」
「まさか窓から突入を⁉︎」
「必要に迫られた場合は」
「危険過ぎます! 人質に何かあれば、」
「その時は私も肉片でしょうね」
息を呑んだ葛城を尻目に蝶野はカチリとインターホンを押した。やや間を置いて応答がある。
〝助けてくれ〟と、それはまるで縋るような男の声だった。
そこから先は見事な突破劇であった、と後の葛城は語る。
立て籠もりを余儀なくされた犯人もとい被害者は幼い娘を人質に脅迫されていた。警戒態勢はそのままに狙撃部隊を取り下げさせた蝶野は現場の上階からベランダに侵入。合図を元に締め切られたカーテンがはためくと、彼は躊躇うことなくガムテープとマイナスドライバーで窓を叩き割った。
曰く、窓を開けたところで爆発の危険性は万に一つもない。
そうして踏み込んだ部屋の中には、素人目にも分かるダイナマイトの取り付けられた爆弾らしき個体がローテーブルの上に置かれていた。
人質の居場所と真犯人は未だ不明。固唾を飲んで見守ることしかできない一同を他所に蝶野の表情に緊張はない。無感情にネジを外して上蓋を取り除き、現れた配線コードに目を細める。パチリ、パチリとペンチがコードを切った。
(必要ねえとは思うけど。本命は玄関だな)
颯爽と玄関へと向かう蝶野の後ろ姿を二人分の視線が追いかける。カチャリと、小さな金属音。
ドン、と。一発の発砲音が響いた。ヘルメットに摩擦痕を残した弾丸は玄関扉にめり込み、緩慢な動作で蝶野が振り向く。肩で息をした女が、蝶野へ銃口を向けたまま睨み付けるように佇んでいる。
「あたしは今度こそこの人と死ぬの! クソ女との子供を肉片にした後にね!!」
人質であったはずの女が、立て籠もり犯とされていた男に銃口を向けた。大した関心もなさそうにドライバーがネジを抜き取る。
「素人が銃なんて使っても思ったところにゃ飛ばねえし、反動で肩外れても知らねえぞ」
説得というには無感情な声で言いながら、蝶野は丁寧に上蓋を外した。悲鳴のような女の声を打撃音が遮る。拳銃がフローリングの上を走った。
強行手段を以って男が説得に踏み切ったらしい。咄嗟に辺りを見回して死傷に結び付きそうなものは見当たらなかったが、現場がマンションの一室であることから調理器具の二、三は存在すると思い直す。
「……仕方ねえな」
問題の男女へと向き直った蝶野は捕縛に使えるものを確認して一歩を踏み出し、どこかからカラリと滑り落ちたスイッチらしき長方形の薄い箱を女が踏み抜いた。女の高笑いに男が頽れる。直後、無線機から現場に残した後輩の声が入った。短く応答して通話を切る。
「それで、この時限爆弾はいつ爆発する設定なんだ」
「知らないわよ、作ったのあたしじゃないし。でも本物だったみたいで安心したわ」
蝶野の方を向いた女はチラリと男を横目で示して言い切った。茫然自失状態の男は言葉が届いていないのか蹲ったまま反応がない。
「お、終わりだ……もう、はは、ハハハハ! こうなったらアンタも一緒に死んでくれよ。アンタみたいな綺麗なツラした奴と死ねるなら本望ってな!」
「……そうか。なら賭けだ。俺が解除できなけりゃ三人仲良くお陀仏、生き残れちまったら二人仲良くお縄ってことで」
フローリングに転がった拳銃を拾い上げる蝶野に女が狼狽えた。やけに手に馴染むリボルバー型のそれはやはり警察官が持つニューナンプM六十、つまりどこぞの警察官が盗まれたか強奪されたか、いずれにせよ紛失したということになる。残弾数はゼロ、拳銃紛失の報せを受けた最新の記憶は、毛利の退職と同年に起こった殺人事件だ。時として三年ほど遡るだろうか。
事件の被害者は現場に駆け付けた警察官、二階級特進により最終階位は警部補。犯人は当時その警察官が所持していた拳銃を持ち去り逃亡、未解決事件となっている。
「よく三年も逃げ回れたな」
「な、何のことだ」
「無駄な努力を労ってやってんだよ」
蝶野は遂に包丁を持ち出した女に詰め寄って凶器を叩き落とすと手早く意識を奪い、背後から襲い掛かる男を投げ飛ばした。
「言ったろ? 賭けだ。邪魔すんじゃねえよ」
二人を纏めて縛り、刃物を遠ざけた蝶野は改めて爆発物に向き直る。
──見れば見るほど精巧に作られた爆弾だ。不毛なやり取りに随分と時間を取られてしまったが、恐らくこれは本当に爆発する代物だろう。
知らず、蝶野の口角が上がる。手を動かすたびに解体されていく小さな箱には、ドラマやアニメで度々目にする電子表示版は設置されていない。尤も、心中目的で作られた爆弾に、わざわざ回路を増やしてまで残り時間を表示する理由もないだろう。
パチリ。傍迷惑な心中計画を否定する。
パチリ。死線が一歩遠ざかる。
パチリ、パチリ。パチン。
繋げられた通信機の向こう側では、銃声が聞こえて尚も平然とした蝶野の様子に焦燥感が膨らんでいた。
淡々と、冷静に。爆弾製造技術を過信して、爆発を確信して諦め切った男の目の前で。
パチン、と。最後の線が断ち切られた。
「起爆装置と爆薬の切り離し、完了しました」
締め切られていた出入り口の扉があっさりと開かれる。到着から僅か三十分のことだった。そしてなんとも恐ろしいことに、蝶野の表情が揺らいだ気配はない。葛城は真っ直ぐに蝶野を視界に捉える。
「……男が人質に取られていた子供の安否は、」
「あぁ、すみません。大丈夫ですよ」
ぞろぞろと突入していく隊員をゆるりと見送りながら、蝶野は弾丸の側面を擦ったヘルメットを外して葛城に言った。
「子供と母親は不審物の報せを受けて出動した爆発物処理班が保護した後、現場の刑事に引き渡しました」
束の間、安堵の表情を見せた葛城はしかし、ヘルメットの側面に走る一直線の弾痕に眉を顰めた。つい先程まで葛城に向いていた蝶野の意識を特科車輌の走行音が奪い去る。停車の直後、扉から滑り降りるように飛び降りた二人の隊員が蝶野に駆け寄った。
「っ先輩、」
蝶野の手元に視線を落とした萩原が咄嗟に息を詰める。手袋越しの松田の指先が真一文字の傷跡をなぞり、じっとりと蝶野の顔を見た。つられて萩原もまじまじと顔を見つめ、無傷を確認するとゆっくりと息を吐きながら蝶野に抱きつく。
「なんだよ」
「……心配、したんすよ。陣平ちゃんなんて移動中、」
「ウルセェ、病み上がりに無茶する誰かさんが悪ィだろ」
萩原の背中に手を回して抱き留めた蝶野はそっぽを向いた松田に苦笑いを浮かべ、未だ離す気がないのだろう萩原の腕の中に収まったまま手を伸ばした。チラリと横目でその手を視認した松田が無言のまま頭で受け止める。一連のやりとりに毒気を抜かれた葛城は呆れたように溜息をついた。
直後、向けられたサングラス越しの眼光に葛城は眉間の皺を深める。すると咎めるように蝶野の手がわしゃりと松田の頭を撫で回し、駆け付ける機動隊員の気配に萩原の腕から抜け出した。
「犯人逮捕、爆弾解体済み。俺は事件の聴取あるから別行動。任せるぞ」
ひらりと葛城の方へ足を進めた蝶野ははたと振り返り、預かったままにしていたライターをそれぞれ持ち主の手元へ放り投げる。咄嗟のことにも難なく受け取った二人の不満そうな顔を尻目に蝶野はその場を離れた。
と、つつがなく──と言うにはやはり常から事件発生率が高すぎる気もするのだが──仕事をこなし、無事に定時時間を迎えた午後八時過ぎの頃、松田の機嫌は何故か最高潮に良くなかった。ここで悪かったと言えないのは、偏に機嫌が悪いと言うには難解な表情をして、常より低い声の相槌は確かに不機嫌そうであり、けれど心做しか気落ちしている様子であったからに他ならない。
更には普段であれば注意力散漫を指摘する松田が、ここぞとばかりに指摘されていたことも気掛かりである。そして何より松田がそれに対して噛み付かなかった辺り、萩原には幼馴染がかなり深刻な状態に陥っていることを心配した。
「陣平ちゃん、明日いつものとこ行こ。七日に行けなかった分の埋め合わせ」
「ん……? いいぜ。ハギ持ちで、って言いてえところだが、当直だからな」
「あぁ、そっか。じゃあ、それはまた今度。んで、今日は飲み行こうぜ。話、聞いてほしいんじゃね〜の?」
「別に俺は、」
話すようなことは何もないと、言いかけて思い留まる。萩原に判断を委ねて辿っていけば、グルグルと渦巻く、形容し難い感情の正体に辿り着くかもしれない。
「……奢りか?」
「ん〜、話の内容によっちゃ折半で」
「なんだそりゃ。まァいいけどよ」
言いながら徐に煙草を取り出した松田は慣れた様子で火をつける。細く上る煙の向こう側、緩く吐き出された紫煙のさらに奥。貸し出したまま返されないサングラスの下の瞳にほんのりと宿った憂いを汲んだ萩原は困惑と心配を混ぜ込んだ表情で口角を上げた。
同日、萩原が呼んだらしい伊達を伴った居酒屋で、松田は何杯目かのビールを前に枝豆を摘んだ。酒の摘として定番である塩茹でされた青い大豆がコロリと取り皿の上に飛び落ちる。
「心ここに在らず、だな。どうしたんだ」
転げ落ちた豆をぼんやりと見つめる松田を見かねた伊達が声を掛ける。無言のまま伊達を一瞥した松田は僅かに口を開き、逡巡した後「なんでもねーよ」と脱走した枝豆を摘み上げて口内に放り込んだ。思わずといった様子で伊達からの視線を浴びた萩原は緩く頭を振る。
「陣平ちゃんさ、仕事中もそんな感じで〝なんでもない〟は流石に嘘でしょ」
「あ? あー……じゃああれだ、お前じゃないから言語化できねえ」
あっさりと、吐き捨てるように松田が言った。つまり、なんらかの相談のために萩原の誘いに乗ったはいいものの、肝心の内容を吐露する方法がないと言う。
萩原の眉間に僅かな皺が寄った。
「俺に言い難い仕事の話、とか?」
果たして言い難いことかと思考を巡らせながらビールを半分ほど飲み干した松田は一言でそれを否定を示し、しかし「そうだな」と呟いた。
「お前があのとき防護服着てなかったのも、いくら火急で他に選択肢のない英断でも、命に関わる危ねーことされたら呑気にヘラヘラできねえってことだ」
吐き捨てた松田は提供された焼き鳥の一本を指先でつまみ上げる。そういえば先輩が好んでいただろうか。食事や飲みの席に同行した際の姿を思い起こしながら、松田は一切れを咥えて串を引き抜いた。正面には苦笑いを浮かべた萩原がいる。
「気が気じゃねーだろ。そんな軽いものでもあるまいし」
これには先ほどまでへらりとしていた萩原も閉口した。どうやら松田が萩原の想定よりもずっと萩原の身を心配していたことに、ようやく気付いたらしい。
「んじゃあ、今日御機嫌ナナメだったのは、先輩に頼ってもらえなかったからってこと?」
じとりと松田が萩原を睨めつける。今、先輩の話はしていないだろう、という目だった。溜息をつきながら枝豆の塩気と焼肉タレの付いた指先を手拭きで拭った松田は、慣れた様子で煙草を取り出した。
──喫煙禁止の居酒屋が増える中、通常喫煙の可能な居酒屋は職務中でも煙草を手離さないヘビースモーカーには行きつけの店である。
「別に今回のは、頼らなかったわけじゃねえと思うけど」
萩原の言葉に肯定も否定もないまま、ゆらりと紫煙が烟る。まるで感情を落ち着かせるようにゆっくりと吐き出された煙が松田の表情を隠した。
「ならお前は、心配じゃなかったのかよ」
「なァんでそんな話になんの? 心配してたの、知ってるだろ」
たださ、俺は先輩が命を無駄にするとは思ってないからさ。もし陣平ちゃんが、先輩が死のうとするかもしれねえって思って焦ってたんなら、陣平ちゃんの心配とはちょっと違うのかも。
口を閉ざしたままの松田は静かに煙草を吸っては吐き出した。
ちらりと映った松田の視界の端で、話についていけていないままの伊達が煙を払うように片手を振っている。よく分からないまま呼び出された挙句、話にも置いて行かれるという迷惑を被っている彼はしかし、怪訝な顔で松田と萩原の様子を窺っていた。
かちりと、伊達の横で萩原も煙草に火をつける。
「お前ら吸っていいかの確認くらいしろよ」
「悪い悪い、ついさぁ」
平謝りの萩原に被せるように松田が煙を吐いた。
「もう吸っちまってんだ、今更んな堅ぇこと言うなよ」
「お前らな……」
常に煙草の臭いを纏わせている二人と同席する時点で煙塗れになるだろうことは承知の上であるが、建前だけでも口にしろというのが伊達の言いたいところである。思わず伊達は溜息をついた。
「んで、陣平ちゃんはなんで今更そんな心配してんの。今までもたまにあっただろ」
目を逸らした松田は再び口を閉ざした。物思いに耽るその顔は、女性の心を簡単に射止めてしまいそうなほど様になっていた。事実、見知らぬ視線が密やかに注がれる中、くしゃりと灰皿に煙草が押し付けられる。
「風羽先輩がいなくなっちまったから、身軽になったって思っててもおかしかねーだろ」
「……じゃあ、松田はさ。俺が死んだら、身軽になったって思うの?」
「馬鹿、なんでそうなんだよ。そうじゃなくて、なんつーか……そうだな。命の、比重の話」
今までは風羽先輩がいたから先に死ぬわけにはいかないって意思が見えたけど、今のあの人は、そうじゃねーだろ。いつ死んでも、死ぬことになってもどうでもいい、有効な命の使い捨て方を探してるように見える。他でもないあの人が。それが不愉快で、悪いかよ。
苦虫を噛み潰したような松田の表情に萩原と伊達は言葉を飲み込んだ。
「……頼られてーんだよ。もっと、ちゃんと」
風羽先輩の代わりになりてぇわけじゃねーけど。半分ほど飲んでから手付かずのままだったビールジョッキを一息で空にした松田は口をへの字に曲げてジョッキを机に戻した。
「すんません、生二つ」
店員の背中を呼び止めた松田がぶっきらぼうに酒を追加する。ほどなくして運ばれたビールは吸うように松田の胃袋に収まり、景色がくらりと回ったようだった。それでも飲まずにはいられないらしい松田が追加でウィスキーや日本酒を頼むのと同時に、萩原は幾つかの料理と水を注文する。どこか手慣れた様子の萩原を横目に伊達は項垂れる松田の旋毛を見下ろした。
「ほら陣平ちゃん、水飲んで。飯食いながら飲もうぜ。班長も!」
ひと足先に運ばれてきた水を松田の前に置いた萩原は柔和に笑って料理が運ばれてくるのを待っていたが、料理より先に運ばれた酒を飲み干した松田の記憶がはっきりと残っているのは、そこまでだった。
──その翌日。
重い瞼を開き、おもむろにベッドから起き上がった松田は重たい頭痛に顔を顰める。昨日の酒は、格別に不味かった。
そこではたと辺りを見回した松田は、寮まで戻った記憶もベッドに潜り込んだ記憶もないが、昨日の同席者は萩原と伊達であったことから二人に介抱してもらったのだろうと推測を立て、鼻腔を擽る料理の匂いにベッドから転がり落ちた。
二人とも確かに面倒見は良いが、わざわざ食事を作りに来るほどのことはしないだろう。二日酔いの薬や、コンビニで買える飲食物を届けに来ることまでは、充分に有り得そうであるが。
「……ん? あぁ、やっと起きたか」
はっきりと視界に収まる外に跳ねた黒い髪に片目が隠れ気味になる長い前髪、右頬の下から口の端にかかる傷跡や聞き覚えのあるその声を含めて、その人物は間違いなく松田が先輩と慕う上司のものであった。松田を覗き込むように屈んだその人物はおもむろに手を伸ばし、手の平で額に触れると頬まで滑らせ寝癖すらもついた襟足に触れて離れていく。
「な、ん……、え、あ……?」
「萩原が二日酔いの薬持って来てくれたから、必要なら飲んどけよ」
じゃあな、と心配気な顔のまま言った上司の腕を掴んで引き留めた松田は昨日の記憶を必死で手繰り寄せようとした。けれどどうにも記憶が繋がらない。松田は怪訝そうに見下ろす上司の腕を離し、スルリと手元から引き抜かれた皺くちゃのジャケットを目で追った。
「……蝶野先輩」
「あんま飲み過ぎんなよ」
ジャケットを小脇に抱えた蝶野はわしゃりと松田の頭をひと撫でするとわずかに笑みを浮かべて踵を返した。ひょこりと寝癖のついた後ろ髪をぼんやりと見送った松田が自らの頬をつねる。現実を訴える確かな痛みを夢の中の痛覚と押し沈め、のろのろと低いテーブルに置かれた薬とペットボトルを手に取った。鈍い痛みが頭に響く。薬を水で押し流し、松田は床に腰を下ろした。
「なんっ……にも覚えてねぇ……」
額に手のひらを押し付けて項垂れた松田は携帯を取り出して幼馴染へのメールを作成した。カチカチと硬いボタンを押し込む無機質な音が部屋の中に響く。メール送信中の画面が送信完了の表示に切り替わるまでを見届けてしばらく経ったのち、荒々しく叩かれた寮のドアを開いた。
「うっっっっそだろ陣平ちゃん! ホントに覚えてないの!?」
「ンな大声出すな、頭に響く」
「ごめ……え? マジなの? 先輩は?」
「さっき帰った。すれ違わなかったか?」
首を左右に振る萩原をぼんやりと眺めながら、松田はそういえば何か作っていたとキッチンに目をやった。簡素な皿に簡単に盛られた野菜炒めらしきものと、見覚えのない白いパックは恐らく加熱式の飯だろう。松田の部屋には電子レンジや冷蔵庫はあれど炊飯器は置いていなかった。
「……今、何時だ」
「五時半。陣平ちゃん当直でしょ。よかったじゃん」
「なんもよかねーよ。明日の朝まで先輩と一緒なんだぞ」
ちらりと窓の外を確認した松田は萩原が出勤前にわざわざ駆け付けたことを認識しつつ「なんにも覚えてねーんだぞ」吐き捨てるようにボヤく。松田にしてみれば、そもそもどうして蝶野がいたのかすら分からない状況だった。
いっそすべて夢ならいくらかマシだったと思いながら、松田の思考が徐々に醒めていく。けれど昨夜の記憶は、やはりない。
「──ハギ、」
「っとごめん、陣平ちゃん。早朝訓練遅刻しそうだから行くわ」
体の前で両手を合わせて詫びるポーズを取った萩原は松田の返事を待つことなくひらりと部屋を後にした。ぼんやりと時計を確認すれば萩原の言葉に嘘はない。話を聞きそびれた松田は携帯を開くとメール画面を開き、未読になっていた三件のメールに気が付いた。
内、一件が伊達から、残りの二件は萩原からである。
件名に「大丈夫か?」とついた伊達からのメールの本文は「お前が飲み潰れるほど悩んでるとは思わなかった。気付いてやれなくて悪かったな。今度はもっとちゃんと話聞いてやる。」その三、四行の空白の下に続く文末には「あんまり先輩困らせんなよ。」と綴られていた。
文面から察するに酔い潰れて絡んだ相手がどうやら先輩だったようであるが、偶然その場に居合わせたのか電話やメールで呼び出したのかは定かではない。しかし呼び出したのであればどこかに履歴が残っているだろうと松田の指先は幾度かボタンを押し込んだ。結果、どうやら蝶野は偶然居合わせたらしかった。
カチカチと松田は萩原からのメールを開封する。件名は未記入、本文は「まさか陣平ちゃんがあそこまで酔っ払うとは思わなかった。薬置いといたから、必要なら飲んで。」メールの時間はちょうど日付が変わった頃。伊達からのメールがその約三十分前なことを考えると介抱役は萩原だろうか。一時頃に届いているもう一通のメールには「気を付けなよ」の件名に「先輩のこと好きなのは分かるけど、呆れられても知らないぞ」という一言が添えられていた。ますます自分が何を仕出かしたか分からなくなった松田は伊達に「昨日は悪かった」と返し、萩原には「薬助かった。俺は昨日何をした?」もう一度同じ内容のメールを送る。頭痛を押し切って記憶を遡れば何かが思い出せるような気がした。
その時、松田の携帯がピロリと新着メールの通知音を上げた。差出人は伊達、本文は「今度お前らの自慢の先輩紹介してくれよ」という一文。手早く「また今度、先輩とタイミングが合えばな」と返しつつ、瞬間的に湧き上がったモヤモヤとした不快感に松田は首を傾げた。
「……二度寝するか」
床に寝転がった松田はキッチンを見上げる。そこには確かに、蝶野が滞在していた痕跡が残っていた。
(今ここで寝て、起きたらベッドの上で何もなかった、とか、ねえかな)
──果たして、すべては現実だった。
硬い床の上で意識を手放した松田は全身の痛みに顔を顰め、呻きながらも起き上がった。時間を確認して一息つき、キッチンに放置されたままになっていた手料理を電子レンジで温め直す。なにをどこから聞くべきかと考えあぐねていれば、床に転がされた携帯が音を立てる。確認しようとして、加熱終了を告げたレンジから野菜炒めを取り出してパックご飯を閉じ込めた。野菜炒めの盛られた皿に見覚えがないことには、目を逸らす。低い簡易的なテーブルに皿を置き、床に転がった携帯を拾い上げて再びレンジの前へと戻る。
『通りすがった先輩引き込んで散々絡み倒したの、本当に何も覚えてない? あんまりにも陣平ちゃんがしつこいから車で送ってくれたんだぜ』
ゴトン、ガタガタ、ガゴン。
松田の手から滑り落ちた携帯が床を跳ねながら転がった。
「…………嘘だろ」
松田の声に応えるようにレンジが鳴く。放心状態の持ち主を他所に、ピロリと、再び床に転がった携帯が軽やかな通知音を上げた。
退院の翌日、翌々日と蝶野は急用という名目で休んだが、それが本人の申請というよりは上役からの気遣いであるだろうことを、多くの同僚が推測していた。
果たして、休暇から戻った蝶野は疲労を滲ませた顔で作り笑いを浮かべると「ごめん」と、一言だけ口にして、他は以前と変わった様子がない。虚勢を張っているのではないかという心配げな声を尻目に、萩原は彼の吸う煙草の銘柄が変わっていることに気が付いた。
「陣平ちゃん、蝶野先輩の煙草」
「あァ? ンなの誰が何吸ってても──」
囁く声の方向を睨み付けていた松田は、萩原の台詞に視線を移動させて言葉を飲み込んだ。銘柄が変わっている。それは先日、殉職した先輩がいつも吸っていたものだった。
ゆらりと、紫煙が燻る。禁煙しないとなあ。蝶野の近くから、聞き慣れた男の声が聞こえた。聞こえるはずだった。
あの、爆発までは。
人当たりが良く優秀で、慕われてもいた茶髪の機動隊員、風羽至の姿はどこにもない。先の事件で殉職した人間がそこに現れるはずもないが、思わず幻視してしまうほどに、彼らは行動を共にしていた。
当時のことを思い出してみても、整ってはいるもののどこか凡庸な容姿をした、けれど表情豊かで頼りやすい男と、端正な顔に傷跡を残す物静かで近寄り難い男の組み合わせは新人の間では殊更注目度が高かったようにも思う。
聞けば、二人は幼馴染の同期で、警察学校でも付かず離れずだったらしい。松田は自然と自分達や同班だった友人の姿を思い出し、それとなく意識の端に追いやった。あの中の誰かが殉職したとして、あの日あの現場にいた萩原が吹き飛んでいたとして、冷静でいられる自信はない。
けれど、蝶野瞬という先輩は自暴自棄になるわけでも、復讐心に駆られるわけでもなく、オイルライターを両手で握り直して呼吸を整え、平然と、淡々と、前を見据えていた。
つよい、人だと思う。例え虚勢だったのだとしても。
チラリとサングラス越しに萩原を盗み見た松田は煙草とライターを取り出した。カチ、カチと何度目かの押し込みで点った炎色に煙草を翳しながら息を吸う。
パチリ。煙草が音を立てる。
交友関係の広い風羽は当初の印象より警戒心が強かったし、冷徹そうな蝶野は交友が限定的なだけで、その実穏やかで柔らかい人だった。けれど端正な顔には一層目立つ傷跡と相俟って、美人の無表情というものは威圧感がある。最初の印象で損をするとは、よく言ったものだと思う。
傷跡の観点で言えば、ある日の着替え中、均整の取れた風羽の背中に大きく残るケロイドを目にしたときも、云い知れない衝撃が走ったことを覚えている。
思わず声を漏らした萩原に振り向いた二人は、慣れているのか大した関心もなさそうに聞き返すこともしなかった。人伝に聞いた話では、風羽の背中と蝶野の顔に残る傷跡は、幼少期に同じ事故で負ったものらしい。
その真相については未だ知るところにないが、二人の先輩はどちらも信用を置かれている優秀な人材であり、萩原と松田には、何かと彼らに構われていた自覚がある。
先の事件で殉職した風羽至と、風羽以外を生還させた蝶野瞬は松田にとってある種煩わしくもあったが、結局のところ無碍にはできなかった。それも、その言葉を聞くに値する実力と、有象無象ではない個人と向き合おうという意識があったからに他ならない。
紫煙を吐いた松田は無言で蝶野に歩み寄るとステンレスの灰皿に煙草を押し付けた。
「……どうした」
「どうもしねーけど」
煙を纏う落ち着いた蝶野の声音に松田はいつもの調子で答える。
視線を落とせば、灰皿を満たす煙草の本数が以前より少ない。蝶野は漠然と風羽の痕跡を辿りながら、手にしている煙草がフィルターの寸前まで燃え尽きていることに気がついた。ゆっくりと、灰皿に押し付けて揉み消す。
──煙草にかかる税金が増加し、分煙の波が高まり喫煙スペースが徐々に失われていく時代の流れに則るべきだっただろうか。幼馴染の、殉職を理由に。
「やめ時見失っちまったな」
松田に続いて徐に歩み寄ってきた萩原を眺めながら、蝶野はポツリと呟くように言った。
何の話ですか? 問い返そうとした萩原を出動要請が阻む。爆発の危険性を孕む不審物が発見されたという情報に爆発物処理班の隊員が動いた。今日の出動隊員には誰がいたかと脳内で隊員の顔を並べながら、手早く準備を整えて出動する。
場所は杯戸町のとある廃工場。度胸試しにと入り込んだ子供の後を追って足を踏み入れた近隣住民の男性が不審物を発見した。偶然にも現場付近を警邏していたことで一足先に現地に到着した捜査第一課特殊犯捜査係からの話によれば、小規模な連続爆破を起こしていた者の仕業と推測される。大方、先の爆発事件に触発されたのだろう。
「今日はやたらと慌ただしいな」
「米花で立て籠もり……と、要人警護もあったからな」
正確には、まだ現在進行形の業務であるが。松田のぼやきにサラリと返答した蝶野の手に二本のライターが現れる。咄嗟に自らのポケットを探った萩原と松田は非難にも似た落胆の声を上げる。
なんでだよ、馬鹿じゃねえの。言い放ちたい言葉を何となく飲み込んだ蝶野は対爆スーツの着用を促した。
「着るんすか~? あの暑苦しいやつ」
「嫌なら俺が解体してもいいんだがな」
「冗談ですって。現場指揮お願いしますよ」
果たして、そう言って着ていなかったのはどこの誰だったか。小さく溜息を吐きつつ防護服に身を包まれていく萩原を横目に松田に声を掛ける。
同じ廃工場の敷地内で確認された爆弾は、残念ながら一つではなかった。更に示唆された爆弾犯の情報からは廃工場の他にも爆弾が仕掛けられている可能性が高く、早急な対処が必要とされる。状況を理解してか否か、準備を整えて颯爽と爆弾解除に向かう新人二人の姿は何とも頼もしい。
処理班以外を爆弾の有効範囲から撤退させ、何時間にも感じられる束の間の張り詰めた空気の中、起爆装置と爆薬の切り離しに成功した旨の報告を受ける。次いで通信を遮断する冷却装置の中に爆弾を沈め、特科車輌に運び込んで一先ずのミッションコンプリート。防爆防護服の脱衣に手を貸す最中、緊急の入電を受け取った。
どうやら米花町で起きている立て籠もり事件の容疑者直々のご指名らしい。蝶野が承諾すると捜査一課の刑事がパトカーに乗り込むことを促す。
けたたましいサイレンと共に、恐らく最速の移動方法で送迎される事態に蝶野は人知れず苦笑いを零した。しかし人命が最優先、人の命に代わるものはない。
「んじゃまァ、良い子にしてろよ」
一つの任務を終えた萩原と松田の頭を撫でた蝶野がパトカーに乗り込む。見送るように、子供じゃない、という抗議の言葉が二つ飛んだ。
赤い光を煌めかせ、人間の耳を劈くサイレンが鳴り響く。一般車の横を通り抜けながら最速で立て籠もり現場に到着すれば、SITから手渡された通信機を装着した。
「葛城警部、状況説明をお願いします」
「急なお呼び立てですみません。お願いします、蝶野さん」
さらりと、緊迫を保ちつつ落ち着いた男の声で状況説明が続く。
配達員を装って侵入した立て籠もり犯がすべてのブラインドを下げて籠城。SITが揃ったところで別所に爆弾を仕掛けてあり、解除前に扉や窓を開ければ起爆するという入電があった。
しかし、その声はまるで用意された台本を読み上げるかのように覚束無く、怯えたように震えていた。そのため立て籠もり犯が何者かに脅されている可能性が浮上したという。扉も窓も開けられない現場に呼び寄せて諸共爆殺、という算段だろうか。
更に続けられた聞き覚えのない立て籠もり犯と人質の名前を聞きながら、蝶野は返していないライターの存在を思い出した。
程なくして現場に到着すれば、待っていましたと言わんばかりの出迎えを受け、丁寧に保管された犯行予告状の現物を手渡される。
「入電は固定電話からですか?」
「ええ、そのようです」
──立て籠もり現場は十七階、マンションは住人と管理者が持つカードキーで入り口の開閉を行うオートロック式である。立て籠もり事件が起きたため、当然ながらそのカードキーは警察の手にも渡っていた。
「……ベランダなら上からでも降りれそうですね」
「まさか窓から突入を⁉︎」
「必要に迫られた場合は」
「危険過ぎます! 人質に何かあれば、」
「その時は私も肉片でしょうね」
息を呑んだ葛城を尻目に蝶野はカチリとインターホンを押した。やや間を置いて応答がある。
〝助けてくれ〟と、それはまるで縋るような男の声だった。
そこから先は見事な突破劇であった、と後の葛城は語る。
立て籠もりを余儀なくされた犯人もとい被害者は幼い娘を人質に脅迫されていた。警戒態勢はそのままに狙撃部隊を取り下げさせた蝶野は現場の上階からベランダに侵入。合図を元に締め切られたカーテンがはためくと、彼は躊躇うことなくガムテープとマイナスドライバーで窓を叩き割った。
曰く、窓を開けたところで爆発の危険性は万に一つもない。
そうして踏み込んだ部屋の中には、素人目にも分かるダイナマイトの取り付けられた爆弾らしき個体がローテーブルの上に置かれていた。
人質の居場所と真犯人は未だ不明。固唾を飲んで見守ることしかできない一同を他所に蝶野の表情に緊張はない。無感情にネジを外して上蓋を取り除き、現れた配線コードに目を細める。パチリ、パチリとペンチがコードを切った。
(必要ねえとは思うけど。本命は玄関だな)
颯爽と玄関へと向かう蝶野の後ろ姿を二人分の視線が追いかける。カチャリと、小さな金属音。
ドン、と。一発の発砲音が響いた。ヘルメットに摩擦痕を残した弾丸は玄関扉にめり込み、緩慢な動作で蝶野が振り向く。肩で息をした女が、蝶野へ銃口を向けたまま睨み付けるように佇んでいる。
「あたしは今度こそこの人と死ぬの! クソ女との子供を肉片にした後にね!!」
人質であったはずの女が、立て籠もり犯とされていた男に銃口を向けた。大した関心もなさそうにドライバーがネジを抜き取る。
「素人が銃なんて使っても思ったところにゃ飛ばねえし、反動で肩外れても知らねえぞ」
説得というには無感情な声で言いながら、蝶野は丁寧に上蓋を外した。悲鳴のような女の声を打撃音が遮る。拳銃がフローリングの上を走った。
強行手段を以って男が説得に踏み切ったらしい。咄嗟に辺りを見回して死傷に結び付きそうなものは見当たらなかったが、現場がマンションの一室であることから調理器具の二、三は存在すると思い直す。
「……仕方ねえな」
問題の男女へと向き直った蝶野は捕縛に使えるものを確認して一歩を踏み出し、どこかからカラリと滑り落ちたスイッチらしき長方形の薄い箱を女が踏み抜いた。女の高笑いに男が頽れる。直後、無線機から現場に残した後輩の声が入った。短く応答して通話を切る。
「それで、この時限爆弾はいつ爆発する設定なんだ」
「知らないわよ、作ったのあたしじゃないし。でも本物だったみたいで安心したわ」
蝶野の方を向いた女はチラリと男を横目で示して言い切った。茫然自失状態の男は言葉が届いていないのか蹲ったまま反応がない。
「お、終わりだ……もう、はは、ハハハハ! こうなったらアンタも一緒に死んでくれよ。アンタみたいな綺麗なツラした奴と死ねるなら本望ってな!」
「……そうか。なら賭けだ。俺が解除できなけりゃ三人仲良くお陀仏、生き残れちまったら二人仲良くお縄ってことで」
フローリングに転がった拳銃を拾い上げる蝶野に女が狼狽えた。やけに手に馴染むリボルバー型のそれはやはり警察官が持つニューナンプM六十、つまりどこぞの警察官が盗まれたか強奪されたか、いずれにせよ紛失したということになる。残弾数はゼロ、拳銃紛失の報せを受けた最新の記憶は、毛利の退職と同年に起こった殺人事件だ。時として三年ほど遡るだろうか。
事件の被害者は現場に駆け付けた警察官、二階級特進により最終階位は警部補。犯人は当時その警察官が所持していた拳銃を持ち去り逃亡、未解決事件となっている。
「よく三年も逃げ回れたな」
「な、何のことだ」
「無駄な努力を労ってやってんだよ」
蝶野は遂に包丁を持ち出した女に詰め寄って凶器を叩き落とすと手早く意識を奪い、背後から襲い掛かる男を投げ飛ばした。
「言ったろ? 賭けだ。邪魔すんじゃねえよ」
二人を纏めて縛り、刃物を遠ざけた蝶野は改めて爆発物に向き直る。
──見れば見るほど精巧に作られた爆弾だ。不毛なやり取りに随分と時間を取られてしまったが、恐らくこれは本当に爆発する代物だろう。
知らず、蝶野の口角が上がる。手を動かすたびに解体されていく小さな箱には、ドラマやアニメで度々目にする電子表示版は設置されていない。尤も、心中目的で作られた爆弾に、わざわざ回路を増やしてまで残り時間を表示する理由もないだろう。
パチリ。傍迷惑な心中計画を否定する。
パチリ。死線が一歩遠ざかる。
パチリ、パチリ。パチン。
繋げられた通信機の向こう側では、銃声が聞こえて尚も平然とした蝶野の様子に焦燥感が膨らんでいた。
淡々と、冷静に。爆弾製造技術を過信して、爆発を確信して諦め切った男の目の前で。
パチン、と。最後の線が断ち切られた。
「起爆装置と爆薬の切り離し、完了しました」
締め切られていた出入り口の扉があっさりと開かれる。到着から僅か三十分のことだった。そしてなんとも恐ろしいことに、蝶野の表情が揺らいだ気配はない。葛城は真っ直ぐに蝶野を視界に捉える。
「……男が人質に取られていた子供の安否は、」
「あぁ、すみません。大丈夫ですよ」
ぞろぞろと突入していく隊員をゆるりと見送りながら、蝶野は弾丸の側面を擦ったヘルメットを外して葛城に言った。
「子供と母親は不審物の報せを受けて出動した爆発物処理班が保護した後、現場の刑事に引き渡しました」
束の間、安堵の表情を見せた葛城はしかし、ヘルメットの側面に走る一直線の弾痕に眉を顰めた。つい先程まで葛城に向いていた蝶野の意識を特科車輌の走行音が奪い去る。停車の直後、扉から滑り降りるように飛び降りた二人の隊員が蝶野に駆け寄った。
「っ先輩、」
蝶野の手元に視線を落とした萩原が咄嗟に息を詰める。手袋越しの松田の指先が真一文字の傷跡をなぞり、じっとりと蝶野の顔を見た。つられて萩原もまじまじと顔を見つめ、無傷を確認するとゆっくりと息を吐きながら蝶野に抱きつく。
「なんだよ」
「……心配、したんすよ。陣平ちゃんなんて移動中、」
「ウルセェ、病み上がりに無茶する誰かさんが悪ィだろ」
萩原の背中に手を回して抱き留めた蝶野はそっぽを向いた松田に苦笑いを浮かべ、未だ離す気がないのだろう萩原の腕の中に収まったまま手を伸ばした。チラリと横目でその手を視認した松田が無言のまま頭で受け止める。一連のやりとりに毒気を抜かれた葛城は呆れたように溜息をついた。
直後、向けられたサングラス越しの眼光に葛城は眉間の皺を深める。すると咎めるように蝶野の手がわしゃりと松田の頭を撫で回し、駆け付ける機動隊員の気配に萩原の腕から抜け出した。
「犯人逮捕、爆弾解体済み。俺は事件の聴取あるから別行動。任せるぞ」
ひらりと葛城の方へ足を進めた蝶野ははたと振り返り、預かったままにしていたライターをそれぞれ持ち主の手元へ放り投げる。咄嗟のことにも難なく受け取った二人の不満そうな顔を尻目に蝶野はその場を離れた。
と、つつがなく──と言うにはやはり常から事件発生率が高すぎる気もするのだが──仕事をこなし、無事に定時時間を迎えた午後八時過ぎの頃、松田の機嫌は何故か最高潮に良くなかった。ここで悪かったと言えないのは、偏に機嫌が悪いと言うには難解な表情をして、常より低い声の相槌は確かに不機嫌そうであり、けれど心做しか気落ちしている様子であったからに他ならない。
更には普段であれば注意力散漫を指摘する松田が、ここぞとばかりに指摘されていたことも気掛かりである。そして何より松田がそれに対して噛み付かなかった辺り、萩原には幼馴染がかなり深刻な状態に陥っていることを心配した。
「陣平ちゃん、明日いつものとこ行こ。七日に行けなかった分の埋め合わせ」
「ん……? いいぜ。ハギ持ちで、って言いてえところだが、当直だからな」
「あぁ、そっか。じゃあ、それはまた今度。んで、今日は飲み行こうぜ。話、聞いてほしいんじゃね〜の?」
「別に俺は、」
話すようなことは何もないと、言いかけて思い留まる。萩原に判断を委ねて辿っていけば、グルグルと渦巻く、形容し難い感情の正体に辿り着くかもしれない。
「……奢りか?」
「ん〜、話の内容によっちゃ折半で」
「なんだそりゃ。まァいいけどよ」
言いながら徐に煙草を取り出した松田は慣れた様子で火をつける。細く上る煙の向こう側、緩く吐き出された紫煙のさらに奥。貸し出したまま返されないサングラスの下の瞳にほんのりと宿った憂いを汲んだ萩原は困惑と心配を混ぜ込んだ表情で口角を上げた。
同日、萩原が呼んだらしい伊達を伴った居酒屋で、松田は何杯目かのビールを前に枝豆を摘んだ。酒の摘として定番である塩茹でされた青い大豆がコロリと取り皿の上に飛び落ちる。
「心ここに在らず、だな。どうしたんだ」
転げ落ちた豆をぼんやりと見つめる松田を見かねた伊達が声を掛ける。無言のまま伊達を一瞥した松田は僅かに口を開き、逡巡した後「なんでもねーよ」と脱走した枝豆を摘み上げて口内に放り込んだ。思わずといった様子で伊達からの視線を浴びた萩原は緩く頭を振る。
「陣平ちゃんさ、仕事中もそんな感じで〝なんでもない〟は流石に嘘でしょ」
「あ? あー……じゃああれだ、お前じゃないから言語化できねえ」
あっさりと、吐き捨てるように松田が言った。つまり、なんらかの相談のために萩原の誘いに乗ったはいいものの、肝心の内容を吐露する方法がないと言う。
萩原の眉間に僅かな皺が寄った。
「俺に言い難い仕事の話、とか?」
果たして言い難いことかと思考を巡らせながらビールを半分ほど飲み干した松田は一言でそれを否定を示し、しかし「そうだな」と呟いた。
「お前があのとき防護服着てなかったのも、いくら火急で他に選択肢のない英断でも、命に関わる危ねーことされたら呑気にヘラヘラできねえってことだ」
吐き捨てた松田は提供された焼き鳥の一本を指先でつまみ上げる。そういえば先輩が好んでいただろうか。食事や飲みの席に同行した際の姿を思い起こしながら、松田は一切れを咥えて串を引き抜いた。正面には苦笑いを浮かべた萩原がいる。
「気が気じゃねーだろ。そんな軽いものでもあるまいし」
これには先ほどまでへらりとしていた萩原も閉口した。どうやら松田が萩原の想定よりもずっと萩原の身を心配していたことに、ようやく気付いたらしい。
「んじゃあ、今日御機嫌ナナメだったのは、先輩に頼ってもらえなかったからってこと?」
じとりと松田が萩原を睨めつける。今、先輩の話はしていないだろう、という目だった。溜息をつきながら枝豆の塩気と焼肉タレの付いた指先を手拭きで拭った松田は、慣れた様子で煙草を取り出した。
──喫煙禁止の居酒屋が増える中、通常喫煙の可能な居酒屋は職務中でも煙草を手離さないヘビースモーカーには行きつけの店である。
「別に今回のは、頼らなかったわけじゃねえと思うけど」
萩原の言葉に肯定も否定もないまま、ゆらりと紫煙が烟る。まるで感情を落ち着かせるようにゆっくりと吐き出された煙が松田の表情を隠した。
「ならお前は、心配じゃなかったのかよ」
「なァんでそんな話になんの? 心配してたの、知ってるだろ」
たださ、俺は先輩が命を無駄にするとは思ってないからさ。もし陣平ちゃんが、先輩が死のうとするかもしれねえって思って焦ってたんなら、陣平ちゃんの心配とはちょっと違うのかも。
口を閉ざしたままの松田は静かに煙草を吸っては吐き出した。
ちらりと映った松田の視界の端で、話についていけていないままの伊達が煙を払うように片手を振っている。よく分からないまま呼び出された挙句、話にも置いて行かれるという迷惑を被っている彼はしかし、怪訝な顔で松田と萩原の様子を窺っていた。
かちりと、伊達の横で萩原も煙草に火をつける。
「お前ら吸っていいかの確認くらいしろよ」
「悪い悪い、ついさぁ」
平謝りの萩原に被せるように松田が煙を吐いた。
「もう吸っちまってんだ、今更んな堅ぇこと言うなよ」
「お前らな……」
常に煙草の臭いを纏わせている二人と同席する時点で煙塗れになるだろうことは承知の上であるが、建前だけでも口にしろというのが伊達の言いたいところである。思わず伊達は溜息をついた。
「んで、陣平ちゃんはなんで今更そんな心配してんの。今までもたまにあっただろ」
目を逸らした松田は再び口を閉ざした。物思いに耽るその顔は、女性の心を簡単に射止めてしまいそうなほど様になっていた。事実、見知らぬ視線が密やかに注がれる中、くしゃりと灰皿に煙草が押し付けられる。
「風羽先輩がいなくなっちまったから、身軽になったって思っててもおかしかねーだろ」
「……じゃあ、松田はさ。俺が死んだら、身軽になったって思うの?」
「馬鹿、なんでそうなんだよ。そうじゃなくて、なんつーか……そうだな。命の、比重の話」
今までは風羽先輩がいたから先に死ぬわけにはいかないって意思が見えたけど、今のあの人は、そうじゃねーだろ。いつ死んでも、死ぬことになってもどうでもいい、有効な命の使い捨て方を探してるように見える。他でもないあの人が。それが不愉快で、悪いかよ。
苦虫を噛み潰したような松田の表情に萩原と伊達は言葉を飲み込んだ。
「……頼られてーんだよ。もっと、ちゃんと」
風羽先輩の代わりになりてぇわけじゃねーけど。半分ほど飲んでから手付かずのままだったビールジョッキを一息で空にした松田は口をへの字に曲げてジョッキを机に戻した。
「すんません、生二つ」
店員の背中を呼び止めた松田がぶっきらぼうに酒を追加する。ほどなくして運ばれたビールは吸うように松田の胃袋に収まり、景色がくらりと回ったようだった。それでも飲まずにはいられないらしい松田が追加でウィスキーや日本酒を頼むのと同時に、萩原は幾つかの料理と水を注文する。どこか手慣れた様子の萩原を横目に伊達は項垂れる松田の旋毛を見下ろした。
「ほら陣平ちゃん、水飲んで。飯食いながら飲もうぜ。班長も!」
ひと足先に運ばれてきた水を松田の前に置いた萩原は柔和に笑って料理が運ばれてくるのを待っていたが、料理より先に運ばれた酒を飲み干した松田の記憶がはっきりと残っているのは、そこまでだった。
──その翌日。
重い瞼を開き、おもむろにベッドから起き上がった松田は重たい頭痛に顔を顰める。昨日の酒は、格別に不味かった。
そこではたと辺りを見回した松田は、寮まで戻った記憶もベッドに潜り込んだ記憶もないが、昨日の同席者は萩原と伊達であったことから二人に介抱してもらったのだろうと推測を立て、鼻腔を擽る料理の匂いにベッドから転がり落ちた。
二人とも確かに面倒見は良いが、わざわざ食事を作りに来るほどのことはしないだろう。二日酔いの薬や、コンビニで買える飲食物を届けに来ることまでは、充分に有り得そうであるが。
「……ん? あぁ、やっと起きたか」
はっきりと視界に収まる外に跳ねた黒い髪に片目が隠れ気味になる長い前髪、右頬の下から口の端にかかる傷跡や聞き覚えのあるその声を含めて、その人物は間違いなく松田が先輩と慕う上司のものであった。松田を覗き込むように屈んだその人物はおもむろに手を伸ばし、手の平で額に触れると頬まで滑らせ寝癖すらもついた襟足に触れて離れていく。
「な、ん……、え、あ……?」
「萩原が二日酔いの薬持って来てくれたから、必要なら飲んどけよ」
じゃあな、と心配気な顔のまま言った上司の腕を掴んで引き留めた松田は昨日の記憶を必死で手繰り寄せようとした。けれどどうにも記憶が繋がらない。松田は怪訝そうに見下ろす上司の腕を離し、スルリと手元から引き抜かれた皺くちゃのジャケットを目で追った。
「……蝶野先輩」
「あんま飲み過ぎんなよ」
ジャケットを小脇に抱えた蝶野はわしゃりと松田の頭をひと撫でするとわずかに笑みを浮かべて踵を返した。ひょこりと寝癖のついた後ろ髪をぼんやりと見送った松田が自らの頬をつねる。現実を訴える確かな痛みを夢の中の痛覚と押し沈め、のろのろと低いテーブルに置かれた薬とペットボトルを手に取った。鈍い痛みが頭に響く。薬を水で押し流し、松田は床に腰を下ろした。
「なんっ……にも覚えてねぇ……」
額に手のひらを押し付けて項垂れた松田は携帯を取り出して幼馴染へのメールを作成した。カチカチと硬いボタンを押し込む無機質な音が部屋の中に響く。メール送信中の画面が送信完了の表示に切り替わるまでを見届けてしばらく経ったのち、荒々しく叩かれた寮のドアを開いた。
「うっっっっそだろ陣平ちゃん! ホントに覚えてないの!?」
「ンな大声出すな、頭に響く」
「ごめ……え? マジなの? 先輩は?」
「さっき帰った。すれ違わなかったか?」
首を左右に振る萩原をぼんやりと眺めながら、松田はそういえば何か作っていたとキッチンに目をやった。簡素な皿に簡単に盛られた野菜炒めらしきものと、見覚えのない白いパックは恐らく加熱式の飯だろう。松田の部屋には電子レンジや冷蔵庫はあれど炊飯器は置いていなかった。
「……今、何時だ」
「五時半。陣平ちゃん当直でしょ。よかったじゃん」
「なんもよかねーよ。明日の朝まで先輩と一緒なんだぞ」
ちらりと窓の外を確認した松田は萩原が出勤前にわざわざ駆け付けたことを認識しつつ「なんにも覚えてねーんだぞ」吐き捨てるようにボヤく。松田にしてみれば、そもそもどうして蝶野がいたのかすら分からない状況だった。
いっそすべて夢ならいくらかマシだったと思いながら、松田の思考が徐々に醒めていく。けれど昨夜の記憶は、やはりない。
「──ハギ、」
「っとごめん、陣平ちゃん。早朝訓練遅刻しそうだから行くわ」
体の前で両手を合わせて詫びるポーズを取った萩原は松田の返事を待つことなくひらりと部屋を後にした。ぼんやりと時計を確認すれば萩原の言葉に嘘はない。話を聞きそびれた松田は携帯を開くとメール画面を開き、未読になっていた三件のメールに気が付いた。
内、一件が伊達から、残りの二件は萩原からである。
件名に「大丈夫か?」とついた伊達からのメールの本文は「お前が飲み潰れるほど悩んでるとは思わなかった。気付いてやれなくて悪かったな。今度はもっとちゃんと話聞いてやる。」その三、四行の空白の下に続く文末には「あんまり先輩困らせんなよ。」と綴られていた。
文面から察するに酔い潰れて絡んだ相手がどうやら先輩だったようであるが、偶然その場に居合わせたのか電話やメールで呼び出したのかは定かではない。しかし呼び出したのであればどこかに履歴が残っているだろうと松田の指先は幾度かボタンを押し込んだ。結果、どうやら蝶野は偶然居合わせたらしかった。
カチカチと松田は萩原からのメールを開封する。件名は未記入、本文は「まさか陣平ちゃんがあそこまで酔っ払うとは思わなかった。薬置いといたから、必要なら飲んで。」メールの時間はちょうど日付が変わった頃。伊達からのメールがその約三十分前なことを考えると介抱役は萩原だろうか。一時頃に届いているもう一通のメールには「気を付けなよ」の件名に「先輩のこと好きなのは分かるけど、呆れられても知らないぞ」という一言が添えられていた。ますます自分が何を仕出かしたか分からなくなった松田は伊達に「昨日は悪かった」と返し、萩原には「薬助かった。俺は昨日何をした?」もう一度同じ内容のメールを送る。頭痛を押し切って記憶を遡れば何かが思い出せるような気がした。
その時、松田の携帯がピロリと新着メールの通知音を上げた。差出人は伊達、本文は「今度お前らの自慢の先輩紹介してくれよ」という一文。手早く「また今度、先輩とタイミングが合えばな」と返しつつ、瞬間的に湧き上がったモヤモヤとした不快感に松田は首を傾げた。
「……二度寝するか」
床に寝転がった松田はキッチンを見上げる。そこには確かに、蝶野が滞在していた痕跡が残っていた。
(今ここで寝て、起きたらベッドの上で何もなかった、とか、ねえかな)
──果たして、すべては現実だった。
硬い床の上で意識を手放した松田は全身の痛みに顔を顰め、呻きながらも起き上がった。時間を確認して一息つき、キッチンに放置されたままになっていた手料理を電子レンジで温め直す。なにをどこから聞くべきかと考えあぐねていれば、床に転がされた携帯が音を立てる。確認しようとして、加熱終了を告げたレンジから野菜炒めを取り出してパックご飯を閉じ込めた。野菜炒めの盛られた皿に見覚えがないことには、目を逸らす。低い簡易的なテーブルに皿を置き、床に転がった携帯を拾い上げて再びレンジの前へと戻る。
『通りすがった先輩引き込んで散々絡み倒したの、本当に何も覚えてない? あんまりにも陣平ちゃんがしつこいから車で送ってくれたんだぜ』
ゴトン、ガタガタ、ガゴン。
松田の手から滑り落ちた携帯が床を跳ねながら転がった。
「…………嘘だろ」
松田の声に応えるようにレンジが鳴く。放心状態の持ち主を他所に、ピロリと、再び床に転がった携帯が軽やかな通知音を上げた。