キラキラと光を反射するオイルライターを横目に、喫茶店で拝借したマッチで煙草に火をつける。知ってるか? それ、ブックマッチって言うんだぜ。得意げな顔で語った幼馴染へ適当に相槌を打った。
「ライターの方が格好良いだろ。マッチはなんか、ジジ臭いっつーか」
「うるせぇな。百円ライターくらいは俺も使うわ」
「使い捨て勿体無いだろ」
貧乏性かよ。実質無料のマッチを使う俺が言えたことではないのだろうけれど。煙を吐き出して「そういえば」と話題を振る。
取り調べ中、どういうことか抜け出した容疑者が刑事の面会者を人質に取ったという話だ。取り調べを担当していた刑事の発砲は人質解放と犯人確保に繋がったが、威嚇射撃もなく人質に怪我を負わせたことが問題として取り上げられ、発砲した刑事は辞職の意思を示しているらしい。
警察学校で未だ塗り替えられることのない、優秀な射撃制度を誇る男が。
「……勿体無いよなぁ」
紫煙を吐き出しながら幼馴染は呟いた。
辞職を表明した二つ上の先輩である毛利小五郎は、機動隊への誘いを蹴って一課を選んでいたと聞いている。優秀な人材であることは確かだ。
けれど。
かの男の素行や推理力はとても、あまりにも難がある。
蝶野は眉間に皺を寄せると紫煙だけを吐き出した。フ、と小さな笑い声に幼馴染を睨む。笑われるようなことをした覚えはない。
「お前、マッチも機動隊以外に愛想悪いとこも、女性職員に人気なんだよなぁ。顔が良いばっかりに」
「……そういう面倒なのは全部お前が受け持っといてくれ」
「無理無理、俺が既婚者なの忘れんなよ」
ほとんど反射で出た舌打ちを軽い笑い声が吹き飛ばす。そんな三年前の、夢を見た。
今までと寸分違わぬ笑みで現場から部下と共に自分を退去させた風羽至は、至近距離で爆発に飲み込まれ、帰っては来なかった。奇しくもそれは、彼の妻子と初めて対話の予定を立てた日の前日、十一月七日のことだった。
それまで存在だけは知っていた彼女と顔を合わせていなかったのは、偏に風羽の「お前に惚れられたら勝てないから会わないでくれ」という我侭を聞いていたからに他ならない。別に取るつもりは微塵もないと言えば、彼はお前がそうでも先輩は分からないだろ、と拗ねたような顔をしていた。
そんな風羽の高校時代からの片想いが実ったのは、大学二年の夏頃だったように思う。先輩と付き合えることになったと興奮気味に語った風羽の顔を、蝶野はよく覚えている。いずれ紹介されることだろうと気長に惚気話を、恐らく四年ほど聞いた。
けれど、晴れて付き合うことが叶った後も変わらず同じ理由の我侭を貫き通した風羽は、無事結婚まで漕ぎ着けた後「二人が俺より仲良くなられたら困る」と一新された理由に思わず苦笑したことを、覚えている。
曰く、最愛の伴侶と生涯の友人の一番でいたいのだと。相も変わらず面倒臭い男だと呆れながら、律儀に我侭を聞いていられたあたり彼女も概ね同じ状況だったのだろう。風羽を介して子供とは面識があったことがその証左のように思える。
警察関係者の誰よりも早く面会者として訪れた、結婚式で一度だけ顔を合わせた彼女と、彼女の腕に抱かれる子供の姿を視界に捉えた途端、どっと記憶が噎せ返った。
「ご、めん」
あの時、俺が防護服を着て、俺が引き継げばよかった。逃げろと叫ぶあの声が、何度も頭の中を駆け巡る。俺が残っていればよかった。
きっと、自分が死んでいた方が良かった。風羽至は生きて家族の元に返らなければいけない男だった。例え四人で会って話せないのだとしても、欠ける一人が彼である必要はなかった。
グッと手の平を握り奥歯を噛み締める。次から次へと溢れ出る涙が止まらない。
黙したままの面会者の指先が頭に触れた。
「きっとね、貴方が生きててよかったって、至さんも思っているのよ」
何年も前から見知っていたような、穏やかで柔らかな声だった。そこでようやく返さなければならない物のことを思い出す。涙を拭って手に取ったオイルライターを彼女へと差し出した。
しばらくの間の後、ゆっくりと、押し返すようにして握られた手はやはり、やさしく柔らかい。
「いいの、いいのよ。これは貴方が持っていて。……あの人のことを忘れないで、たまに娘とも遊んでくれれば、それで」
もし自分が同じ立場だったとして、果たして同じことが言えただろうか。例え死が真隣に存在する職務であろうと、失いたくないひとの理不尽な死に直面して、もしもと、責めずにいられただろうか。押し返されたオイルライターを両手で握り込む。
「……申し訳、ありません」
「わたしね、至さんから貴方の話、たくさん聞いてるの。だから、今度会うときは貴方の至さんの話、聞かせてね」
嗚咽混じりに相槌を打って、あやすように頭を撫でる手の温かさを受け入れる。望まれるならそのままに、幾らでも話すとも。その記憶の中でなら、風羽至は生きているのだから。
手の甲で涙を拭い、オイルライターの金属板に彫られた聖母マリアを指先でなぞった蝶野は苦笑した。それまで穏やかに言葉を紡いでいた幼馴染の妻の声が止まる。廊下を振り返った彼女は「賑やかになってきたわね」と微笑むと、再度蝶野の頭を撫でた。
「このまま居座ったら人気者を独り占めできるかしら?」
悪戯っぽく言った彼女はしかし、椅子から立ち上がると「そろそろ格好良い先輩を返してあげなくちゃね」名残惜しそうに蝶野の毛先を弄んでから半歩後退する。
「次はこちらから伺います」
「あら、じゃあお菓子を用意して楽しみに待ってるわ」
ひらひらと片手を振って踵を返した彼女と入れ違うようにして二人の後輩と、数人の刑事が病室へと足を踏み入れた。キラリと、オイルライターが陽光を跳ね返す。
「止まったタイマーが動き出した理由、ご存知ですよね」
息を呑む音に蝶野は溜息を溢した。体を強張らせた刑事は言葉を選ぶように押し黙る。
彼らは仮初の安全が確保された時間内に解除しなかった落ち度があると主張して、責任転嫁するなと言い募ることも可能だった。目の前にいるのが、たった一人、同期を除いた機動隊員すべてを階下へ退避させて重傷を負った男でさえなかったのなら。
「黙って顔見に来ただけならとっとと帰って下さい。残念ながらこの通り、私は元気です」
蝶野は追い払うような手の動作で、事件詳細を語らないのであれば居座られても迷惑だと言動に表した。
ばつが悪そうに顔を顰めた刑事は意を決した様子で口を開く。
「爆弾犯から爆弾の解除方法の入電があり────」
逆探知で居場所を特定し、追跡中に道路へ飛び出した犯人が車に撥ねられた直後、一フロアを吹き飛ばす爆発があったことで複数犯であることが判明した。起爆スイッチを押したもう一人の爆弾犯は未だ逃走中、手掛かりとなりそうな痕跡は発見されていない。
つまり、繰り返される報道情報から爆弾が止まっていないと勘違いして自ら尻尾を出した犯人を確保し損ね、起爆スイッチを押した共犯者の情報は掴めていないということだ。
「おい、そりゃどういうことだよ!」
「ちょ、ちょっと陣平ちゃん! 病院で暴れちゃ駄目だって」
「お前だって死んでたかもしれねえんだ! 一発殴る権利くらいあるだろうが!」
松田は萩原に押し留められながらも刑事へ掴みかかろうと手を伸ばす。一言も喋らないまま追い払うように手を振った蝶野に会釈した刑事達はそれとなく松田と距離を取りながら退室した。
「松田」
蝶野は不満たらたらという顔で刑事の背中にすら威嚇していた後輩を呼んだ。膨れたままの表情でベッドサイドまで歩み寄った松田の頭をわしゃわしゃと撫で回し、半歩身を引く体を抱き留める。
きつく拳を握り込んだ松田は閉口したまま一歩踏み込むと、大人しくあやすように背中を撫でる手を受け入れた。しばらくしてするりと腕が離される。頭に伸ばされた手は、ぼさぼさに乱れた黒髪を整えて頬を撫でると離れていった。
「……いいんすか」
「よかねえよ。お前が殴りたくなるのもわかる」
「ならどうして、」
そんなに落ち着いていられるんですか、風羽先輩は死なずに済んだかもしれないのに。
松田は思わず喉まで出かかった言葉を何とか飲み込んだ。
「……捜査も逮捕も、こっちの領分じゃない」
銀色に輝く小さな形見に視線を落とした蝶野は軽く指先に力を入れて続ける。
「例え追跡する刑事の手が届かなくても、何回爆発事件を企てられても、俺は動ける限り機動隊で命守るって決めてんの」
片眉を下げ、困ったような笑みを浮かべながら「お前らはどうしたい?」蝶野は穏やかな声で言った。
「そりゃあ、犯人取っ捕まえたいに決まってるでしょ。ていうか、俺には何にもないんですか?」
松田の隣で小さく両腕を広げた萩原はわざとらしく首を傾げて口角を上げた。
「お前は防護服着てなかった上にヤニ休憩してたからなぁ」
「えぇ? 俺だって心配して見舞いに来たんですよ。平等に甘やかしてくれてもいいじゃないすか」
「仕方ねえな」
伸ばされた手を頭で受け止めた萩原は擦り寄るように体を寄せて蝶野の背中に腕を回した。規則的な拍動と生きた人間の体温に、ようやく安堵の息を吐く。
「……よかった」
ポツリと零された言葉に蝶野は柔らかく萩原の背中を撫でて応える。途端に強まった腕の力に、ジリリと傷口が悲鳴を上げた。
背中から全身を駆け巡った痛覚に小さく呻いた蝶野はしかし、萩原の襟足に指を滑り込ませた。あやすように手櫛で梳るその動作はどこまでも柔らかい。その温かさを、萩原も松田もよく知っている。
「少し寝過ぎたな」
苦笑いの気配に萩原は力を緩めた。するりと包帯越しの手が頬に触れる。
「……おはよ」
「大寝坊っすよ、先輩」
蝶野は松田にしたのと同じように萩原の頭を撫で回した。ケラケラと笑う萩原を横目に松田の視線は花瓶へ注がれる。
黄色を主として赤や白色を添えられた花は鮮やかに陽光を浴びて、春の風景を彩る蝶のようにも見えた。
「……先輩、それ、誰からのすか」
松田の視線を追った蝶野が嘆息に似た声を漏らせば、萩原は「風羽先輩の奥さんからじゃないんですか?」小首を傾げながら尋ねる。首を軽く横に振った蝶野は懐かしむような目で切り花を眺めた。
「快気祝いに石鹸くれるどっかの探偵さん」
「……昨日も今日もそんなヤツ見てねーけど」
「そりゃあ、あの人はいつも何だかんだ理由付けて病室には来ないし」
別に追い返さねえのにな。ぼんやりと窓の外を眺めながら吐き捨てる様子は二人が見知った姿より幼く、拗ねているような雰囲気すら感じさせた。およそ蝶野が普段、冷徹で怖いと噂されている男とは思えない横顔である。尤も、同部署である萩原と松田が、直接会って話した蝶野へその印象を抱いたことはないのだが。
「せんぱ〜い、今度俺達にも紹介してくださいよ。何か力になれるかもしれないっすよ」
「……? 助力を求めるようなことは微塵もないんだが」
「またまた、どういう関係のどんな人なんすか? 相談乗りますよ」
ベッドサイドに置かれた椅子に腰かけて前のめりになった萩原へ、松田の冷たい視線が注がれる。ガリガリとリノリウムの床を傷付けながら足で椅子を引いた松田は、幼馴染の暴走に呆れながら腰を下ろした。
「……俺の教育係だったちょび髭オールバックのヤニカス酒カスクソ男」
チラリと松田を見た蝶野は困惑のまま話題の人物の特徴を答える。するとガクリと目に見えて肩を落とした萩原にようやく合点がいった。
「なんでも色恋に結びつけようとすんじゃねえよ」
残念だったな。萩原の頭を軽く叩くように撫でた蝶野の苦笑に松田は「ほらみろ」と追撃をかける。
「でも、だってほら、陣平ちゃんも気になったんじゃないの?」
「そういうんじゃねぇっつの」
サングラスを外した松田は気怠げに足を組んで目を座らせた。フイと顔を逸らす様子は猫にも似ている。
「松田。萩原」
はい、と声を揃えて応答した二人の視線が蝶野に向き、愛しむような視線の先にあるオイルライターへと落ちる。包帯の巻かれた指が金属製のケースを撫でていた。
「ありがとうな」
穏やかな、柔らかな声だった。
咄嗟に返す言葉を失った二人はそのまま押し黙る。重い沈黙になるかという最中、三人の耳に騒がしい足音が届いた。
その足音からややあってダン、と壁を叩く音を立てた後、極めて平静を装ったスーツ姿の男が来訪した。僅かに目を見開いた蝶野は半開きになった口をそのままに小首を傾げる。
「な、かもり、さん……?」
「チッ、また負けた。ったく暇でいいな、探偵ってやつは」
「……他人の怪我を出しに競わないでください」
ポスリと投げ捨てられた花束を受け取った蝶野は、呆れと困惑を多分に含んだ声で感謝の言葉を続けた。中森の手が蝶野の頭を捉え乱暴にかき回す。大人しくされるがままになっていた蝶野へ中森は歯を見せて笑った。
「良い機会だ、しっかり休めよ」
「中森さんこそ、たまには仕事忘れてゆっくり過ごしてはいかがです?」
「お・ま・え・が・な!」
再度わしゃわしゃと蝶野の髪を撫で回す中森を萩原越しの松田が睨み付ける。大して気にした様子もなくその視線を受け流した中森はあっさりと踵を返して出入り口の方へ突き進んでいった。
「仕事仕事で娘さん寂しがってますよ」
ひらひらと、振り向かないまま片手が振られる。そのまま姿を消した捜査二課の男へ松田は悪態を付いた。ラッピングペーパーの立てた音が蝶野の苦笑をかき消す。
「……松田はまだ警備で呼ばれたことなかったか」
「あぁ? ハギは会ったことあんのかよ」
「どうだったかな、女の子の顔なら忘れないんだけど」
ぶすくれる松田へ軽口を返した萩原は蝶野に向かって片目を閉じた。例え萩原が言葉の通りに忘れていたとして、向こう側とて大半をヘルメットで覆う機動隊員の顔を記憶しているとは言い難い。蝶野は渡された花束を眺め、次に窓際の花瓶に咲く複数の花を見て眉根を寄せた。
「……まあ、喧嘩しなけりゃいいよ」
わざわざ時間を割いて来てくれたことを含め、綺麗な花は嬉しいのだが、どうにも同じ花瓶には収まりそうにない。かといってそのままというのも気が引ける。そもそも三十直前の男の見舞いの品で花束が被るのも面白い話だ。つくづく仲の良い様子に蝶野は微笑を浮かべた。
「んじゃ、俺は朝話したし、花瓶借りてくるわ」
「あぁ……悪いな、頼む」
「いーえ、先輩はゆっくり休んでてください」
口角を上げた萩原は椅子から立ち上がると、ぼさぼさのまま放置された蝶野の頭髪を軽く整えて上機嫌に病室から出て行った。口をへの字に曲げたままサングラスをかけ直した松田は無言のまま病院着の隙間から覗く包帯に視線を向けた。
「見た目ほど大した負傷じゃないぞ。出動服に防水難燃加工がされてんのは知ってるだろ」
「……いつまで待ちゃいいんすか」
「んん……来週には復帰してるだろ。優秀な後輩のお陰でもっとのんびりしてても良さそうだけどな」
さすがに体が鈍る、と言いながら蝶野は欠伸を零した。散々寝たはずの体は未だ惰眠を貪りたいらしい。
「まァ、しばらく任せるわ。我が侭言ってあんま困らせんなよ」
「任せろ、と言いてぇところだが……どうだろうな」
あっけらかんとした蝶野の言葉に松田は数時間前まで萩原が寝ていたベッドの方へ視線を流した。
元々個室を手配される予定だった二人を同室に押し込めたのは、偏に松田の我が侭だったと言っても過言ではない。勿論、同じ現場に居合わせた同部署の人間であると警察手帳を見せれば病室まで通してもらえただろう。だが、そうなっては意識が回復したという情報の入手が後手に回ることも考えられた。現に蝶野が目覚めたことを爆発物処理班まで真っ先に持ち込んだのは萩原だった。
一見無理難題に思えることも、ゴネれば案外通るものだと松田は知っている。とはいえ今回に関しては萩原の援護射撃もなく、小隊長のフォローと容態を鑑みた妥協であったようであるが。
「いい加減、俺と至以外の言うことも聞いてやってくれ」
「ケッ、在籍年数が多少長いだけで態度のデカい、テメェより出来ねえ奴の言うことなんざ聞けるかよ」
「莫迦、お前らみたいなのがゴロゴロいたら俺の立つ瀬がねえよ。優秀な人材は多いに越したことねえけどな」
無意識に煙草を取ろうとした手を途中で止めた蝶野は溜息を吐いた。ここに幼馴染がいれば何と言っただろう。不意に恋しくなった紫煙を、後輩の衣服に染みついた煙草の臭いの所為にして頭を振る。
「戻って真っ先に泣き言が来ると思うと考えものだな……」
「んで、先輩が俺達の面倒見てくれるんすよね」
花瓶を持った襟足の長い黒髪の色男はパチリと片目を閉じた。
「ハギにしちゃあ早えな」
「ナンパできる相手がいなかったんだろ」
「いやいや、陣平ちゃんも先輩も酷〜い。ま、二人のお陰で俺が霞んじゃったんだけど」
やれやれといった様子で水のみが入った花瓶を花で彩られた花瓶の隣に置いた萩原は、蝶野の手から花束を攫った。音を立ててラッピングペーパーが取り外される。はらりと、名刺サイズほどの紙が滑り落ちた。
拾い上げてみれば、見舞いの言葉と苗字が書かれたメッセージカードである。ふと、来訪した時より置かれていた花瓶の近くを確認した萩原は、デザインこそ異なるものの、同じ形状をしたメッセージカードの存在に気がつく。
「なにそれ」
間延びした「どうぞ」という台詞の後に差し出された二枚の紙切れに蝶野は怪訝そうに眉間を顰めた。
凡そ無茶をするな、心配をかけるなという内容の最後に添えられた差出人は、直接渡しに来た中森と、面会には訪れない毛利の名である。
「ンなこと直接言いに来りゃいいのに」
蝶野からメッセージカードを返された萩原は笑いながら元の位置に二枚を重ねて置き直した。
「みんな心配なんですよ。ホラ、先輩って目離したら、いなくなっちゃってそうで」
この面会だって機動隊内で争奪戦だったんすよ? 冗談めかして言う萩原の言葉の真偽はムッと顰められた松田の表情が物語っている。職務放棄するわけないだろ、と言いかけて、先ほど萩原が一瞬言葉を躊躇ったことを思い返す。
「別に死のうと思って仕事してねえよ」
「それは、そうであってくれなきゃ困るっていうか……」
「あとな、お前らの方がよっぽど死に急ぎ連中に見えんぞ」
「んじゃあお互い様だろ。一緒にアクセル踏んでんだ」
言い淀む萩原の反面、躊躇いのない松田の切り返しに蝶野は深い溜息を吐いた。
「……あんまり一人で突っ走んないでくれよ」
「そん時ゃアンタが止めてくれんだろ。俺も、ハギも」
サングラス越しの強い眼差しが蝶野に注がれる。身を乗り出した蝶野の手が松田の癖の強い黒髪をかき混ぜた。
「後輩先に死なせてたまるかよ」
この手が存外嫌いではないのだと、松田は思う。仕事道具の一つとして大切にされるその指先が自らの癖毛を梳くのも、萩原の長髪を弄ぶのも。
「……帰る」
「えぇ!? 陣平ちゃんあんなにゴネたのに!?」
「ゴネてねーよ、順当な結果だ。順・当・な!」
そっぽを向いて一人で帰っていく松田の背中に萩原は苦笑した。順当な結果と言うには、萩原と同様に相当な生命の危機を伴った隊員の志願があった。幼馴染の見栄を優先して食い下がったところで、蝶野が復帰さえしてしまえば、いずれ言いくるめられた彼らの口から今日のことが語られる日も来るだろう。その日まで黙秘としてもいい。
「ま、陣平ちゃんらしいし」
「……お前ら本当に俺のこと好きな」
「今更気付いたんすか?」
「やめろや、お前も早く帰れ。暇じゃねえだろ」
「そんな邪険にしないでくださいよ」
「はいはい、」
「俺、先輩に庇ってもらった張本人すよ。心配しないでいられますか」
おざなりに聞き流そうとした蝶野へ萩原は至って冷静に言い募った。じ、と萩原を見上げた蝶野はしばらくその端正な顔を見つめ、呆れの混じった息を吐くと片手を掬い上げる。怪我なく傷が残ることもなかった萩原の手を軽く繋いだまま親指でなぞり「心配性だな」一言、呟くように転がした。
「蝶野先輩」
ゆっくりと握り返された萩原の手が、僅かに震えている。
「せんぱい、俺は────」
「ライターの方が格好良いだろ。マッチはなんか、ジジ臭いっつーか」
「うるせぇな。百円ライターくらいは俺も使うわ」
「使い捨て勿体無いだろ」
貧乏性かよ。実質無料のマッチを使う俺が言えたことではないのだろうけれど。煙を吐き出して「そういえば」と話題を振る。
取り調べ中、どういうことか抜け出した容疑者が刑事の面会者を人質に取ったという話だ。取り調べを担当していた刑事の発砲は人質解放と犯人確保に繋がったが、威嚇射撃もなく人質に怪我を負わせたことが問題として取り上げられ、発砲した刑事は辞職の意思を示しているらしい。
警察学校で未だ塗り替えられることのない、優秀な射撃制度を誇る男が。
「……勿体無いよなぁ」
紫煙を吐き出しながら幼馴染は呟いた。
辞職を表明した二つ上の先輩である毛利小五郎は、機動隊への誘いを蹴って一課を選んでいたと聞いている。優秀な人材であることは確かだ。
けれど。
かの男の素行や推理力はとても、あまりにも難がある。
蝶野は眉間に皺を寄せると紫煙だけを吐き出した。フ、と小さな笑い声に幼馴染を睨む。笑われるようなことをした覚えはない。
「お前、マッチも機動隊以外に愛想悪いとこも、女性職員に人気なんだよなぁ。顔が良いばっかりに」
「……そういう面倒なのは全部お前が受け持っといてくれ」
「無理無理、俺が既婚者なの忘れんなよ」
ほとんど反射で出た舌打ちを軽い笑い声が吹き飛ばす。そんな三年前の、夢を見た。
今までと寸分違わぬ笑みで現場から部下と共に自分を退去させた風羽至は、至近距離で爆発に飲み込まれ、帰っては来なかった。奇しくもそれは、彼の妻子と初めて対話の予定を立てた日の前日、十一月七日のことだった。
それまで存在だけは知っていた彼女と顔を合わせていなかったのは、偏に風羽の「お前に惚れられたら勝てないから会わないでくれ」という我侭を聞いていたからに他ならない。別に取るつもりは微塵もないと言えば、彼はお前がそうでも先輩は分からないだろ、と拗ねたような顔をしていた。
そんな風羽の高校時代からの片想いが実ったのは、大学二年の夏頃だったように思う。先輩と付き合えることになったと興奮気味に語った風羽の顔を、蝶野はよく覚えている。いずれ紹介されることだろうと気長に惚気話を、恐らく四年ほど聞いた。
けれど、晴れて付き合うことが叶った後も変わらず同じ理由の我侭を貫き通した風羽は、無事結婚まで漕ぎ着けた後「二人が俺より仲良くなられたら困る」と一新された理由に思わず苦笑したことを、覚えている。
曰く、最愛の伴侶と生涯の友人の一番でいたいのだと。相も変わらず面倒臭い男だと呆れながら、律儀に我侭を聞いていられたあたり彼女も概ね同じ状況だったのだろう。風羽を介して子供とは面識があったことがその証左のように思える。
警察関係者の誰よりも早く面会者として訪れた、結婚式で一度だけ顔を合わせた彼女と、彼女の腕に抱かれる子供の姿を視界に捉えた途端、どっと記憶が噎せ返った。
「ご、めん」
あの時、俺が防護服を着て、俺が引き継げばよかった。逃げろと叫ぶあの声が、何度も頭の中を駆け巡る。俺が残っていればよかった。
きっと、自分が死んでいた方が良かった。風羽至は生きて家族の元に返らなければいけない男だった。例え四人で会って話せないのだとしても、欠ける一人が彼である必要はなかった。
グッと手の平を握り奥歯を噛み締める。次から次へと溢れ出る涙が止まらない。
黙したままの面会者の指先が頭に触れた。
「きっとね、貴方が生きててよかったって、至さんも思っているのよ」
何年も前から見知っていたような、穏やかで柔らかな声だった。そこでようやく返さなければならない物のことを思い出す。涙を拭って手に取ったオイルライターを彼女へと差し出した。
しばらくの間の後、ゆっくりと、押し返すようにして握られた手はやはり、やさしく柔らかい。
「いいの、いいのよ。これは貴方が持っていて。……あの人のことを忘れないで、たまに娘とも遊んでくれれば、それで」
もし自分が同じ立場だったとして、果たして同じことが言えただろうか。例え死が真隣に存在する職務であろうと、失いたくないひとの理不尽な死に直面して、もしもと、責めずにいられただろうか。押し返されたオイルライターを両手で握り込む。
「……申し訳、ありません」
「わたしね、至さんから貴方の話、たくさん聞いてるの。だから、今度会うときは貴方の至さんの話、聞かせてね」
嗚咽混じりに相槌を打って、あやすように頭を撫でる手の温かさを受け入れる。望まれるならそのままに、幾らでも話すとも。その記憶の中でなら、風羽至は生きているのだから。
手の甲で涙を拭い、オイルライターの金属板に彫られた聖母マリアを指先でなぞった蝶野は苦笑した。それまで穏やかに言葉を紡いでいた幼馴染の妻の声が止まる。廊下を振り返った彼女は「賑やかになってきたわね」と微笑むと、再度蝶野の頭を撫でた。
「このまま居座ったら人気者を独り占めできるかしら?」
悪戯っぽく言った彼女はしかし、椅子から立ち上がると「そろそろ格好良い先輩を返してあげなくちゃね」名残惜しそうに蝶野の毛先を弄んでから半歩後退する。
「次はこちらから伺います」
「あら、じゃあお菓子を用意して楽しみに待ってるわ」
ひらひらと片手を振って踵を返した彼女と入れ違うようにして二人の後輩と、数人の刑事が病室へと足を踏み入れた。キラリと、オイルライターが陽光を跳ね返す。
「止まったタイマーが動き出した理由、ご存知ですよね」
息を呑む音に蝶野は溜息を溢した。体を強張らせた刑事は言葉を選ぶように押し黙る。
彼らは仮初の安全が確保された時間内に解除しなかった落ち度があると主張して、責任転嫁するなと言い募ることも可能だった。目の前にいるのが、たった一人、同期を除いた機動隊員すべてを階下へ退避させて重傷を負った男でさえなかったのなら。
「黙って顔見に来ただけならとっとと帰って下さい。残念ながらこの通り、私は元気です」
蝶野は追い払うような手の動作で、事件詳細を語らないのであれば居座られても迷惑だと言動に表した。
ばつが悪そうに顔を顰めた刑事は意を決した様子で口を開く。
「爆弾犯から爆弾の解除方法の入電があり────」
逆探知で居場所を特定し、追跡中に道路へ飛び出した犯人が車に撥ねられた直後、一フロアを吹き飛ばす爆発があったことで複数犯であることが判明した。起爆スイッチを押したもう一人の爆弾犯は未だ逃走中、手掛かりとなりそうな痕跡は発見されていない。
つまり、繰り返される報道情報から爆弾が止まっていないと勘違いして自ら尻尾を出した犯人を確保し損ね、起爆スイッチを押した共犯者の情報は掴めていないということだ。
「おい、そりゃどういうことだよ!」
「ちょ、ちょっと陣平ちゃん! 病院で暴れちゃ駄目だって」
「お前だって死んでたかもしれねえんだ! 一発殴る権利くらいあるだろうが!」
松田は萩原に押し留められながらも刑事へ掴みかかろうと手を伸ばす。一言も喋らないまま追い払うように手を振った蝶野に会釈した刑事達はそれとなく松田と距離を取りながら退室した。
「松田」
蝶野は不満たらたらという顔で刑事の背中にすら威嚇していた後輩を呼んだ。膨れたままの表情でベッドサイドまで歩み寄った松田の頭をわしゃわしゃと撫で回し、半歩身を引く体を抱き留める。
きつく拳を握り込んだ松田は閉口したまま一歩踏み込むと、大人しくあやすように背中を撫でる手を受け入れた。しばらくしてするりと腕が離される。頭に伸ばされた手は、ぼさぼさに乱れた黒髪を整えて頬を撫でると離れていった。
「……いいんすか」
「よかねえよ。お前が殴りたくなるのもわかる」
「ならどうして、」
そんなに落ち着いていられるんですか、風羽先輩は死なずに済んだかもしれないのに。
松田は思わず喉まで出かかった言葉を何とか飲み込んだ。
「……捜査も逮捕も、こっちの領分じゃない」
銀色に輝く小さな形見に視線を落とした蝶野は軽く指先に力を入れて続ける。
「例え追跡する刑事の手が届かなくても、何回爆発事件を企てられても、俺は動ける限り機動隊で命守るって決めてんの」
片眉を下げ、困ったような笑みを浮かべながら「お前らはどうしたい?」蝶野は穏やかな声で言った。
「そりゃあ、犯人取っ捕まえたいに決まってるでしょ。ていうか、俺には何にもないんですか?」
松田の隣で小さく両腕を広げた萩原はわざとらしく首を傾げて口角を上げた。
「お前は防護服着てなかった上にヤニ休憩してたからなぁ」
「えぇ? 俺だって心配して見舞いに来たんですよ。平等に甘やかしてくれてもいいじゃないすか」
「仕方ねえな」
伸ばされた手を頭で受け止めた萩原は擦り寄るように体を寄せて蝶野の背中に腕を回した。規則的な拍動と生きた人間の体温に、ようやく安堵の息を吐く。
「……よかった」
ポツリと零された言葉に蝶野は柔らかく萩原の背中を撫でて応える。途端に強まった腕の力に、ジリリと傷口が悲鳴を上げた。
背中から全身を駆け巡った痛覚に小さく呻いた蝶野はしかし、萩原の襟足に指を滑り込ませた。あやすように手櫛で梳るその動作はどこまでも柔らかい。その温かさを、萩原も松田もよく知っている。
「少し寝過ぎたな」
苦笑いの気配に萩原は力を緩めた。するりと包帯越しの手が頬に触れる。
「……おはよ」
「大寝坊っすよ、先輩」
蝶野は松田にしたのと同じように萩原の頭を撫で回した。ケラケラと笑う萩原を横目に松田の視線は花瓶へ注がれる。
黄色を主として赤や白色を添えられた花は鮮やかに陽光を浴びて、春の風景を彩る蝶のようにも見えた。
「……先輩、それ、誰からのすか」
松田の視線を追った蝶野が嘆息に似た声を漏らせば、萩原は「風羽先輩の奥さんからじゃないんですか?」小首を傾げながら尋ねる。首を軽く横に振った蝶野は懐かしむような目で切り花を眺めた。
「快気祝いに石鹸くれるどっかの探偵さん」
「……昨日も今日もそんなヤツ見てねーけど」
「そりゃあ、あの人はいつも何だかんだ理由付けて病室には来ないし」
別に追い返さねえのにな。ぼんやりと窓の外を眺めながら吐き捨てる様子は二人が見知った姿より幼く、拗ねているような雰囲気すら感じさせた。およそ蝶野が普段、冷徹で怖いと噂されている男とは思えない横顔である。尤も、同部署である萩原と松田が、直接会って話した蝶野へその印象を抱いたことはないのだが。
「せんぱ〜い、今度俺達にも紹介してくださいよ。何か力になれるかもしれないっすよ」
「……? 助力を求めるようなことは微塵もないんだが」
「またまた、どういう関係のどんな人なんすか? 相談乗りますよ」
ベッドサイドに置かれた椅子に腰かけて前のめりになった萩原へ、松田の冷たい視線が注がれる。ガリガリとリノリウムの床を傷付けながら足で椅子を引いた松田は、幼馴染の暴走に呆れながら腰を下ろした。
「……俺の教育係だったちょび髭オールバックのヤニカス酒カスクソ男」
チラリと松田を見た蝶野は困惑のまま話題の人物の特徴を答える。するとガクリと目に見えて肩を落とした萩原にようやく合点がいった。
「なんでも色恋に結びつけようとすんじゃねえよ」
残念だったな。萩原の頭を軽く叩くように撫でた蝶野の苦笑に松田は「ほらみろ」と追撃をかける。
「でも、だってほら、陣平ちゃんも気になったんじゃないの?」
「そういうんじゃねぇっつの」
サングラスを外した松田は気怠げに足を組んで目を座らせた。フイと顔を逸らす様子は猫にも似ている。
「松田。萩原」
はい、と声を揃えて応答した二人の視線が蝶野に向き、愛しむような視線の先にあるオイルライターへと落ちる。包帯の巻かれた指が金属製のケースを撫でていた。
「ありがとうな」
穏やかな、柔らかな声だった。
咄嗟に返す言葉を失った二人はそのまま押し黙る。重い沈黙になるかという最中、三人の耳に騒がしい足音が届いた。
その足音からややあってダン、と壁を叩く音を立てた後、極めて平静を装ったスーツ姿の男が来訪した。僅かに目を見開いた蝶野は半開きになった口をそのままに小首を傾げる。
「な、かもり、さん……?」
「チッ、また負けた。ったく暇でいいな、探偵ってやつは」
「……他人の怪我を出しに競わないでください」
ポスリと投げ捨てられた花束を受け取った蝶野は、呆れと困惑を多分に含んだ声で感謝の言葉を続けた。中森の手が蝶野の頭を捉え乱暴にかき回す。大人しくされるがままになっていた蝶野へ中森は歯を見せて笑った。
「良い機会だ、しっかり休めよ」
「中森さんこそ、たまには仕事忘れてゆっくり過ごしてはいかがです?」
「お・ま・え・が・な!」
再度わしゃわしゃと蝶野の髪を撫で回す中森を萩原越しの松田が睨み付ける。大して気にした様子もなくその視線を受け流した中森はあっさりと踵を返して出入り口の方へ突き進んでいった。
「仕事仕事で娘さん寂しがってますよ」
ひらひらと、振り向かないまま片手が振られる。そのまま姿を消した捜査二課の男へ松田は悪態を付いた。ラッピングペーパーの立てた音が蝶野の苦笑をかき消す。
「……松田はまだ警備で呼ばれたことなかったか」
「あぁ? ハギは会ったことあんのかよ」
「どうだったかな、女の子の顔なら忘れないんだけど」
ぶすくれる松田へ軽口を返した萩原は蝶野に向かって片目を閉じた。例え萩原が言葉の通りに忘れていたとして、向こう側とて大半をヘルメットで覆う機動隊員の顔を記憶しているとは言い難い。蝶野は渡された花束を眺め、次に窓際の花瓶に咲く複数の花を見て眉根を寄せた。
「……まあ、喧嘩しなけりゃいいよ」
わざわざ時間を割いて来てくれたことを含め、綺麗な花は嬉しいのだが、どうにも同じ花瓶には収まりそうにない。かといってそのままというのも気が引ける。そもそも三十直前の男の見舞いの品で花束が被るのも面白い話だ。つくづく仲の良い様子に蝶野は微笑を浮かべた。
「んじゃ、俺は朝話したし、花瓶借りてくるわ」
「あぁ……悪いな、頼む」
「いーえ、先輩はゆっくり休んでてください」
口角を上げた萩原は椅子から立ち上がると、ぼさぼさのまま放置された蝶野の頭髪を軽く整えて上機嫌に病室から出て行った。口をへの字に曲げたままサングラスをかけ直した松田は無言のまま病院着の隙間から覗く包帯に視線を向けた。
「見た目ほど大した負傷じゃないぞ。出動服に防水難燃加工がされてんのは知ってるだろ」
「……いつまで待ちゃいいんすか」
「んん……来週には復帰してるだろ。優秀な後輩のお陰でもっとのんびりしてても良さそうだけどな」
さすがに体が鈍る、と言いながら蝶野は欠伸を零した。散々寝たはずの体は未だ惰眠を貪りたいらしい。
「まァ、しばらく任せるわ。我が侭言ってあんま困らせんなよ」
「任せろ、と言いてぇところだが……どうだろうな」
あっけらかんとした蝶野の言葉に松田は数時間前まで萩原が寝ていたベッドの方へ視線を流した。
元々個室を手配される予定だった二人を同室に押し込めたのは、偏に松田の我が侭だったと言っても過言ではない。勿論、同じ現場に居合わせた同部署の人間であると警察手帳を見せれば病室まで通してもらえただろう。だが、そうなっては意識が回復したという情報の入手が後手に回ることも考えられた。現に蝶野が目覚めたことを爆発物処理班まで真っ先に持ち込んだのは萩原だった。
一見無理難題に思えることも、ゴネれば案外通るものだと松田は知っている。とはいえ今回に関しては萩原の援護射撃もなく、小隊長のフォローと容態を鑑みた妥協であったようであるが。
「いい加減、俺と至以外の言うことも聞いてやってくれ」
「ケッ、在籍年数が多少長いだけで態度のデカい、テメェより出来ねえ奴の言うことなんざ聞けるかよ」
「莫迦、お前らみたいなのがゴロゴロいたら俺の立つ瀬がねえよ。優秀な人材は多いに越したことねえけどな」
無意識に煙草を取ろうとした手を途中で止めた蝶野は溜息を吐いた。ここに幼馴染がいれば何と言っただろう。不意に恋しくなった紫煙を、後輩の衣服に染みついた煙草の臭いの所為にして頭を振る。
「戻って真っ先に泣き言が来ると思うと考えものだな……」
「んで、先輩が俺達の面倒見てくれるんすよね」
花瓶を持った襟足の長い黒髪の色男はパチリと片目を閉じた。
「ハギにしちゃあ早えな」
「ナンパできる相手がいなかったんだろ」
「いやいや、陣平ちゃんも先輩も酷〜い。ま、二人のお陰で俺が霞んじゃったんだけど」
やれやれといった様子で水のみが入った花瓶を花で彩られた花瓶の隣に置いた萩原は、蝶野の手から花束を攫った。音を立ててラッピングペーパーが取り外される。はらりと、名刺サイズほどの紙が滑り落ちた。
拾い上げてみれば、見舞いの言葉と苗字が書かれたメッセージカードである。ふと、来訪した時より置かれていた花瓶の近くを確認した萩原は、デザインこそ異なるものの、同じ形状をしたメッセージカードの存在に気がつく。
「なにそれ」
間延びした「どうぞ」という台詞の後に差し出された二枚の紙切れに蝶野は怪訝そうに眉間を顰めた。
凡そ無茶をするな、心配をかけるなという内容の最後に添えられた差出人は、直接渡しに来た中森と、面会には訪れない毛利の名である。
「ンなこと直接言いに来りゃいいのに」
蝶野からメッセージカードを返された萩原は笑いながら元の位置に二枚を重ねて置き直した。
「みんな心配なんですよ。ホラ、先輩って目離したら、いなくなっちゃってそうで」
この面会だって機動隊内で争奪戦だったんすよ? 冗談めかして言う萩原の言葉の真偽はムッと顰められた松田の表情が物語っている。職務放棄するわけないだろ、と言いかけて、先ほど萩原が一瞬言葉を躊躇ったことを思い返す。
「別に死のうと思って仕事してねえよ」
「それは、そうであってくれなきゃ困るっていうか……」
「あとな、お前らの方がよっぽど死に急ぎ連中に見えんぞ」
「んじゃあお互い様だろ。一緒にアクセル踏んでんだ」
言い淀む萩原の反面、躊躇いのない松田の切り返しに蝶野は深い溜息を吐いた。
「……あんまり一人で突っ走んないでくれよ」
「そん時ゃアンタが止めてくれんだろ。俺も、ハギも」
サングラス越しの強い眼差しが蝶野に注がれる。身を乗り出した蝶野の手が松田の癖の強い黒髪をかき混ぜた。
「後輩先に死なせてたまるかよ」
この手が存外嫌いではないのだと、松田は思う。仕事道具の一つとして大切にされるその指先が自らの癖毛を梳くのも、萩原の長髪を弄ぶのも。
「……帰る」
「えぇ!? 陣平ちゃんあんなにゴネたのに!?」
「ゴネてねーよ、順当な結果だ。順・当・な!」
そっぽを向いて一人で帰っていく松田の背中に萩原は苦笑した。順当な結果と言うには、萩原と同様に相当な生命の危機を伴った隊員の志願があった。幼馴染の見栄を優先して食い下がったところで、蝶野が復帰さえしてしまえば、いずれ言いくるめられた彼らの口から今日のことが語られる日も来るだろう。その日まで黙秘としてもいい。
「ま、陣平ちゃんらしいし」
「……お前ら本当に俺のこと好きな」
「今更気付いたんすか?」
「やめろや、お前も早く帰れ。暇じゃねえだろ」
「そんな邪険にしないでくださいよ」
「はいはい、」
「俺、先輩に庇ってもらった張本人すよ。心配しないでいられますか」
おざなりに聞き流そうとした蝶野へ萩原は至って冷静に言い募った。じ、と萩原を見上げた蝶野はしばらくその端正な顔を見つめ、呆れの混じった息を吐くと片手を掬い上げる。怪我なく傷が残ることもなかった萩原の手を軽く繋いだまま親指でなぞり「心配性だな」一言、呟くように転がした。
「蝶野先輩」
ゆっくりと握り返された萩原の手が、僅かに震えている。
「せんぱい、俺は────」