大型ショッピングモールの観覧車と病院に設置された爆弾事件以降、松田と蝶野の関係には新たに〝恋人〟が追加された。はずである。
にも関わらず、その蝶野瞬という男は、相も変わらず松田の腕の中でスヨスヨと寝息を立てていた。流石に文句の一つや二つ言ってやろうと思っていた松田も思わずチャラにしてしまう程、穏やかで心地良さそうな寝顔である。
(信用されてんのは、嬉しいけどよ)
するりと顔を擦り寄せる蝶野に口元を緩ませつつ、恐る恐る頬にかかった髪の毛を耳にかける。顔に残った傷跡を指でなぞり、四年前の傷跡に思いを馳せた。
きっとこの人は、かつて負った傷の中でもその部分には答えてくれないだろう。大切に抱える幼馴染の記憶も、進んで話してくれるわけではない。
わずかに唸った想い人を抱き込んで、松田は目を閉じた。穏やかな寝息、確かな体温。緩やかに続く、あの日以来、誰も喪わない穏やかで暖かな日常が、この先も長く、永く続いていけばいい。
「おやすみ、瞬さん」
やはりどこまでも、この男の体温は心地良く眠れるのだと理解して、安心している自分を自覚した。その安心も、どこまでももう会うことのできない幼馴染の影を追っていることに気付いてしまえば罪悪感が募り、それでもいいとさえ宣う後輩に言いようのない居た堪れなさが折り重なる。
しっかりと巻きつく松田の腕を引き剥がし、布団から転がり出ようとして捕まった。ズルリと温かなシーツと毛布の間に引き戻される。
「……どこ、いくんすか」
夢と現の狭間を彷徨っているような覚束無い声で文句を訴えた松田は蝶野の頸に唇を押し付けた。腹に回された腕の力が強まる。足を絡ませ、より密着したところで、松田の意識が夢の中へと旅立った。突然のことに体を強張らせた蝶野が恐る恐る身動げば、またしても逃げられると勘違いしたのか、より拘束が強まる。
「ゔ……」
しっかりと力のこもる松田の手の上に手を重ねて隙間を作ろうとした直後、ビクリと松田の腕が跳ねた。大慌てで拘束が解かれる。
「……スンマセン」
「んじゃ、飯作りに行っていいか?」
ふわりと癖毛を撫でた蝶野は揶揄うように笑って松田に訊ねる。わずかに松田の眉間に皺が寄った。
「出掛けるのは今度にして今日はダラけたい?」
ベッドの端に座った蝶野の背中を抱き込むように凭れかかった松田は朧げな記憶を辿っていく。工具店に行こうという話をしていたのは萩原で、飯を食いに行こうと言っていたのは五つ上の先輩。猫カフェには、先日萩原を誘って行っていたためお呼びではないだろう。萩原の抜け駆けにやや不満はあるが、お陰で写真フォルダが随分と潤ったためチャラとした。
低く唸った松田ははたと行き先を思い出す。直前で断られることもないと信じてチケットも既に買っていた、けれど。
もう少しだけ、二人きりでゆっくり過ごしたい気もする。
再度ぐぅ、と唸った松田は蝶野と視線を合わせ、おもむろに重ねられた唇にぐるりと押し倒した。
目を丸くした蝶野の肩口に顔を埋め、指を絡めてから見下ろす。
「そういうのは、ちゃんと俺に惚れてからやってください」
こつりと額を合わせた松田はゆっくりとまばたきをして離れると首裏を掻きながら寝室から抜け出る。未だ大手を振って両想いとは言い難い想い人を腕の中に収めて微睡むつもりが、完全に覚醒した上に元気になってしまった。
深い溜息をついた松田は蝶野の足音を遠くに聞きながらトイレまで直行する。ありとあらゆる不純な感情を殺した添い寝は完遂できたというのに、やはり意思を持って迫られてしまうと弱い。萩原から借りたままのサングラスがあれば、もう少し上手く取り繕うことができただろうか。
(そういやサングラス、どこやったかな)
眉間に皺を寄せながらリビングに顔を出した松田は、見慣れたサングラスを掛けてマグカップを傾ける蝶野に硬直した。
「…………蝶野さん」
「なに。顔洗って着替えろよ」
ズズとマグカップの中身を啜った蝶野の表情はサングラスが遮って伺いきれない。サングラスを掛けている蝶野側からは少なくない動揺が筒抜けであるにも関わらず。
「ゴロゴロしてたいなら一人で行くけど」
「いや一人でゴロゴロしてても意味ねーだろ。なんでそうなるんだよ」
いそいそと顔を洗いに行き、着替えにと意識を向けた松田が頭を抱える。蝶野が着ていた灰色のタートルネックは自分が持ち込んだ私服ではないだろうか。あまりにも見覚えのある、萩原に見繕わせた中でも比較的よく着ていたデザインのものだ。曰く『さすが陣平ちゃん。ツラが良いだけあって甘めの服も似合うね』ということらしい。当時は適当に聞き流したが、今になって甘いデザインという言葉の意味が分かる気がする。
「一人でフラフラどっか行かないでくださいよ」
「言われなくてもちゃんと寮まで送ってやるから安心しろよ」
「は、……いや、そうじゃねぇ。つーか、その方が問題なんだっつの」
もはや書き慣れた外泊届けを頭の隅に置きつつ松田は眉間を片手で押さえた。
奇妙な同居生活はその実、同居とは名ばかりの外泊なのである。積み上がる外泊届けに寮を出るかと打診されたこともあったが、結局松田は居住区を寮から移したいと言い出せないままであった。
その理由は極めて明白だ。ここまできて蝶野に断られたりフラれでもしたら立ち直れる気がしない。確率にして二つ返事で受け入れられるが八、断られるが二、というのが松田の予想であるが、やはりその少数側に振れてしまう可能性が痛手なのである。
決断に対するブレーキなど、存在しなかったというのに。
「寮まで送られたら気まずいか。確かにな」
「そうすね。アンタの私服姿がカワイイって話題になったら嫌なんで」
「……? お前の服だろ」
「ああ。いつもの三倍クる」
距離を詰めた松田は閉口した蝶野の額に自身の額を押し当ててニヤリと笑い、耳まで赤く染めて仰け反った。機嫌を窺うように松田の唇と唇を押し当てた蝶野がくつくつと笑う。
「アンタ、さァ……!」
話聞いてなかったのかよ。サングラスを奪い返した松田はぎこちなく口元の表情を取り繕いながら、楽しそうな蝶野を見下ろした。つい先ほど、惚れてからにしてくれと言ったはずである。松田はわずかに首を傾げて見上げる蝶野に奥歯を噛み締めた。
「やめてください、本当に。勘違いしそうになる」
「松田のことは好きだよ」
アンタのその好きは俺の好きとは違うだろ。しかしその好きを否定したくもなかった松田は喉元まで出た言葉を飲み込んだ。マグカップを静かに置いた蝶野が、言い淀んだ松田の言葉の先に気付いて苦笑する。
それを思い違いと訂正できるほどの確信を持って向き合えている自信は、ない。
「喫茶店行きませんか。飯、まだすよね?」
ゆっくりと頷く蝶野に目を細めた松田はおもむろに手を伸ばし、するりと摺り寄せられた頬に硬直した。椅子を後ろに引いた蝶野はマグカップを片手に立ち上がると固まったままの松田の視界からふらりと姿を消す。
しばらくして再度松田の前に現れた蝶野はしっかりと白のチェスターコートを身に付けていた。
「行かねえの?」
「っ、う……い、きます」
カラカラと笑いながらも、やはり楽しみにはしていた様子に内心松田は安堵する。チケットまで取られていたから渋々行きます、という温度感であったら立ち直れなかったかもしれない。
「……やっぱり似合いますね」
そのコート、とも、その服、とも言えないまま蝶野の姿を上から下まで眺め直した松田はわずかにサングラスをずらした。困ったように下がる眉尻が可愛いと思う。
「置いて行くぞ」
「待ってくださいよ」
この人、俺とのデートを楽しみにしてたわけじゃなくて、ただただ水族館に行きたいだけじゃねえか。はたと真理に気がついてしまった松田は苦笑いすらできなかった。二人で出掛けるからと浮かれていたのは、どうやら自分だけだったらしい。言い得ぬ感情から目を逸らし、鍵を手にした蝶野に置いて行かれないよう慌ててコートを羽織る。
厄介事がなにも起きなければいい、と思ってしまうと何かしらが起きそうな気もするが、取り敢えずは休みを合わせて楽しみにしていただろう蝶野が楽しめれば良しとすることにした。
「松田じゃないか。一人でどうした? デートの下見か?」
厄介事が起きなければいいと思えば思うほど阻まれるものというのは定番らしい。
なんの因果か入場を果たした直後に見かけた見知った顔と目が合わないように逸らし続けていたが、あっさりとその相手に見つかってしまった松田は不本意な足止めを喰らってしまっていた。
「誰が一人でこんなとこ来るかよ」
言って、振り返った先に同行者はいなかった。一瞬にして下がった体温に喉がひゅうと音を立てる。辺りを見回してもあの白いコートは見当たらない。
「そう見栄を張らなくてもいいだろう。お前なら混ぜてやるぞ?」
揶揄うように言い募る初恋の相手への恋慕はもう昇華しているし、初デートと浮かれていた感情も途端に萎んでしまった。ダチと来たなら俺に構ってないでそのまま楽しんでりゃいいじゃねーか。言わずに飲み込む予定だった言葉がするりと松田の口から転がり落ちる。相手が蝶野さんだったなら、こんな失言もしなかっただろうに。
「そう拗ねるな。今度お前ともどこか──」
「行かねぇーよ。生憎そんな暇じゃあないんでね」
ぶっきらぼうに言い放った松田は、やはり話を聞いていなかったらしい蝶野を捜しに人混みに飛び込んで行った。
一方、意図せず松田を置いて行ってしまった蝶野は、正しく本当に一人で水族館を満喫していた。人混みを気にすることもなくのんびりと魚たちを眺めてはゆるりと進み、同行者がいなくなってしまっていることにも気が付かない。
「……蝶野さん?」
ふと掛けられた声を聞こえなかったことにして通り過ぎたい気持ち九割で応えれば、そこにはやはり端正な顔をして襟足の長い、長身の男が人好きする微笑みを湛えて蝶野を見ていた。
「あれ、陣平ちゃんは?」
キョロキョロと辺りを見回す萩原に釣られて蝶野も辺りを見回すが、なるほど、確かに入り口までは一緒にいたはずの後輩の姿がない。そこでようやく蝶野はまた同行者をどこかに置いてきてしまったことに気がついた。
しかし。
「まあ逸れたら三時に入り口って言ってあるし大丈夫だろ」
「いや、いやいやいや。陣平ちゃん絶対、絶ェ〜〜っ対に捜し回ってるから。連絡しますね」
「するほどのことでもねえだろ。……あ」
携帯を開いた蝶野は松田からの新着メッセージの量に閉口した。何度か電話もかかってきている。
ジッと携帯の画面を見つめる蝶野の正面から画面を覗き込んだ萩原は、特になにもせずに閉じられたそれに思わず両手で蝶野の手ごと携帯を包み込んだ。
「なんだよ」
「いや連絡。返信してあげてくださいよ」
「やだよ。一つ返そうとしてる間に五件も六件も送ってきやがるんだぞ」
「それは……」
流石に松田が不憫である、とは言い切れなくなってしまった。そもそも伊達の話ではかなりの連絡不精である蝶野が松田からのメールを読んでいるかも怪しい。それはそれで幼馴染が不憫だと思わなくもないのだが。
ブブ。手の中で携帯が震える。しばらく考えて、萩原は蝶野の片手を掴んだまま松田に電話を掛けた。ぶっきらぼうで苛立った幼馴染みの声。お前の捜し人は捕まえた。素っ頓狂な声を上げた松田が即座に場所を聞いてくる。鰯の水槽の前。簡素に答えてブツリと通話が切られたことを確認した萩原は「ほら、すごい心配してましたよ」と言おうとして、既に蝶野の関心が魚に戻っていることに気がついた。
恋人より魚ですか? 先輩。俺だったら勢いと圧で押し切って頷かせてしまっただけの、脈無しだと思って諦めるかも。諦めの悪い松田に感心半分、同情半分である。
「……あ、航くんとナタリーさん」
「え? あ、ホントだ。班長〜!」
「げ」
顔を引き攣らせた伊達に蝶野はひらりと手を振った。頭を抱えて深い溜息をついた伊達を不思議そうに見上げたナタリーが小さく笑う。面倒事を義弟に丸投げして、いそいそと鑑賞に戻ろうとした蝶野の手首を萩原が慌てて掴み止める。蝶野の深い溜息を萩原は聞かなかったことにした。まったく、油断も隙もない人だ。
「……あ。悪い、萩原」
するりと萩原の手から逃れた蝶野は、萩原を盾にするように身を屈めて周囲を警戒する。わずかに蒼褪めた顔で携帯を開いた蝶野は迷いなく松田に電話をかけた。
「先輩……?」
怪訝な顔をした萩原に隠れながら、数秒――わずか二コール分の間を置いて電話が繋がると、ふらりと蝶野が順路を逆走していく。
どうして今更渋っていた連絡を取る気になったのかと困惑を乗せて萩原は伊達を見上げた。てっきり自分と同じ方向を見ていると思っていた萩原は、伊達の視線が真逆を向いていたことを知り、辺りを見回す。伊達の視線の先にいたのは、四十代後半から五十代の凡庸な男である。連れはいなさそうであるが、伊達に睨み付けられるほど不審な様子はない。
「班長……?」
「いや、俺も詳しいことは分からねぇんだ」
松田なら知ってるかも知れねぇけど。言ってから、あの人の性格を考えたら知らない可能性の方が高いと気が付いて苦い顔をした伊達は、再度辺りを見回して溜息をついた。
「……で、警察学校の同期に彼女のこと紹介してくれないの?」
「あぁ、また今度な」
また今度。果たしてその今度は本当に来るのだろうか。訝しげな視線に「あの男、追ってくれねぇか?」伊達は萩原にこそりと耳打ちした。
萩原は快諾の軽い言葉と綺麗なウィンクを以ってその身を翻す。不安を表情に現したナタリーに穏やかに笑った伊達は「なるべく離れないでくれ」と、松田が蝶野に訴えた言葉を転がした。
◇◆◇◆◇
ふわりと体が浮く。ゆらりと視界が回り、空を切る。声が、聞こえた、ような気がした。落ちていると気付いたのはその数秒後のこと。男の悲鳴が耳を劈く。考えるより先に体が動いていた、などと言えば多少は許してもらえるだろうか。嘘では、ないのだけれど。
果たして、それは誰への言い訳だろうか。爆風、破片、これは不可抗力。
体が落ちる。視界が揺らぐ。激痛。犯人確保、赤い明滅。意識が途切れる。
目を覚ました真白な個室で真っ先に飛び込んだのは、酷く狼狽した端正な顔だった。くるりと跳ねた黒色の天然パーマが揺れる。
「先輩」
「調書、終わったのか」
「とっくに終わってますよ、そんなもん」
こちとらアンタが爆風と一緒に窓から落ちるのも見てたんだぞ。不満たらたらといった風に言い募る松田に蝶野は苦笑いを浮かべた。
「救助マットが間に合ってよかった」
「のほほんと笑って流せるモンじゃないだろ。気が気じゃなかったんすよ。しっかり骨折してるし」
そういえば診察に来た医者が骨折していると言っていたか。眉間に皺を寄せる松田に手を伸ばしてみれば右脚に痛みが走った。ベッドに片手をついた松田がズイと身を寄せる。
直後、騒がしい足音と共に病室の扉が開け放たれた。
「先ぱ――――おい松田ァ!」
肩で息をしながら詰め寄った萩原が松田を引き剥がす。不服そうな顔で大人しく引き剥がされる松田をおかしそうに笑った蝶野は、のそのそと体を起こした。しっかりと固定されているとはいえ右脚にビリビリと鈍い痛みが響く。容疑者と落ちて、着地も失敗したのだから仕方ないか。ひとり納得していた蝶野の意識を萩原の声が呼び戻す。
「寝込み襲うのはダメだろ!」
「襲ってねぇよ」
萩原に拘束されたまま言い返す松田の姿は、まるで飼い主に捕まった猫である。
(なんだったっけ。大きめの猫みたいな子犬?)
かつて幼馴染が鬼塚にした表現はやはり的を射て、他の言葉を並べる余地もない。警察学校時代の問題児を指してその表現を用いているからか、機動隊の猛獣使いと呼ばれていたらしいことは、警察庁への人事異動で知った。
曰く、彼らを飼い慣らせる人間は他にいないのだとか。
「まつだ」
柔らかく、わずかに幼さを含んだ声色に勝ち誇った笑みを浮かべた松田の拘束を解いた萩原は、ハラハラとしながら幼馴染の動向を注視した。
ゆるりと持ち上がった蝶野の手は、迎えに行くように屈んだ松田の頭頂部に下ろされる。
大人しく撫でられる幼馴染の後ろ姿はどことなく嬉しそうだ。姉に玉砕されていた頃や警察学校時代と比べ、わずかに大人びて落ち着きを覚えた松田の成長を噛み締めながら、付き合うに至らない二人の関係に歯噛みする。
松田が姉に挑んでは玉砕を繰り返していた時分には松田を応援していたし、姉である千速と松田がデートのような形になる応援もしていた萩原である。今では姉に想いを寄せる重悟に尻叩きをしているわけで、どちらにしてもどこか千速は楽しんでいる様子であったし満更でもなさそうであることも茶々入れの理由の一つではあった。
けれどこの二人ときたらどうだ。とっくに付き合っているかと思えば松田は踏み込まず、蝶野も好意があるのかないのか仕事仲間の一線を越えさせる様子がないのである。
近しい大切な人の幸福を、応援しない理由はないというのに。
「ごめんね」
「……今度、一緒に水族館行ってくれるなら、チャラにしてもいいスよ」
踏み込んだデートの約束に蝶野が苦笑した。いつ? 端的かつ前向きな言葉に、への字に曲がった松田の口角が数ミリ上がる。
「来月の四日。公休被ってるんで」
公休。非番でもない完全な休日。蝶野はほんのわずか、眉間に皺を寄せて「シフト通りに休めるかわかんねぇよ」臨時の午後休(というよりは早退か)と翌日の出勤も叶わないことを理解して唸った。
「アンタしっかり骨折してるんスよ、足。一ヶ月は療養期間だろ」
「やだよ、松葉杖ついて行くの」
「ならクリスマス。なんか予定は?」
「先約がある」
チ、と大きな舌打ち。誰とですか。踏み込んだ松田の言葉に蝶野は片眉を下げて曖昧に笑った。
「家族で過ごすもんだろ」
家族。それは太刀打ちできない。松田は閉口して拳を握った。仮に、友人や同僚、先輩後輩と言われたら食い下がっただろうかと考えて、結局この人の交友関係に割り入ろうとは思わなかっただろう。
結果、蝶野瞬にはすこぶる弱いという自覚を以て松田が黙り込んだ。
「…………、二十日」
苦い顔の松田を前に目を泳がせた蝶野はおずおずと呟く。
「来月の。多分もう復帰もできてるだろうし」
「……は、」
空けとけ、付き合ってやる。ぶっきらぼうな台詞に松田は口を半開きにしたまま瞬きを繰り返した。そうしてぽすりとベッドに身を倒した蝶野は追い払うように片手を振った。
――――と、そんなこんなで冒頭に戻る。
約束したときはただの仕事仲間であったが、今や晴れて恋人同士の、初デートだった。
片手に握った携帯が震える。また萩原か、今向かってっからもうちょい足止めしててくれ。閉じた携帯の、細く小さな電子板がキラリと表示した名前を二度見する。迷いなく通話ボタンを押した。
「蝶野さん、アンタ――」
「ごめん。ごめん、どこいる? くるま、もど、ってるわ」
「待ってください、今どこですか。蝶野さん、聞こえてますか? 蝶野さん!」
わずかに震えるか細い声に非常事態を察知した松田は館内マップを脳内に広げて蝶野の返答を待った。親子連れ、子供、カップルの声。どれもどこの区画でも聞こえる周囲の騒めきの中、松田は携帯の向こう側から無邪気な子供の声を拾い上げた。
(サメは、大水槽。さっき萩原は、イワシの水槽って言ってたはずだ。ってことは)
このまま順路に逆らった二つ先の区画あたり。萩原からの連絡で素通りしていたらしいことにも、初デートで恋人が純粋に一人で水族館を楽しんでいたことにも驚いた。ガシャリと落下音がして通話が切られる。慌てて辺りを見回した松田は壁に寄りかかる蝶野の背中を見つける。
手のひらを握り、ゆらりと壁伝いに一歩を踏み出した蝶野の足元には携帯が転がっていた。恋人より魚ですか。合流したら言ってやろうと思っていた文句も霧散していく。
「――――さん!」
誰かに呼びかける声と近づく足音にひゅう、と蝶野の喉が鳴る。目の前で立ち止まった見覚えのある靴と、視界に入った腕に一歩身を引いた。動けますか。ピタリと静止したその人の伺うような柔らかい声が遠くに聞こえる。けれど脳内に鳴り響く警鐘が鎮まらない。息を詰めてもう一歩、後退った。
早く、はやく逃げなければ。
――どこに?
「先輩。蝶野さん、俺のこと、分かりますか?」
大きく足を踏み出した松田はサングラスを外すと、びくりと肩を震わせた蝶野の頬に手を添えて視線を合わせる。浅い呼吸に情けなく眉尻を下げて怯えた様子の蝶野は数回瞬きをして、安心したように息を吐いた。まつだ。掻き消えてしまいそうな小さな声で呟いて、ゆらりと近づいた蝶野をそっと抱き止める。肩にかかる熱と重量に松田は小さく安堵の息を溢した。
「帰りましょう」
「ご、めん」
「いい。俺はアンタに無理させたくて誘ったわけじゃねぇから」
「で、も」
「手ェ震えてんの、分かりますよ。車の鍵貸してください」
外に跳ねた黒髪を梳る松田の手があやすように蝶野の背中を撫でる。ようやく呼吸が普段通りに回復した蝶野はぎゅうと松田を抱き締めた。
「……ごめん」
「謝んなよ。次はアンタから目ェ離さねぇんで」
首が左右に振られる。もう二度と一緒に出掛けたくないと言われたらどうしよう。思えば、この人が自分の腕の中にいるとき、首が縦に振られた記憶がない。一抹の不安を抱えながら、松田は蝶野の動向に身を委ねる。
「ごめん。萩原に言われるまで、いないの気付かなかった」
「……よか、ねぇけど。いいスよ、今回は」
蝶野からの拘束がわずかに強まる。そのままゆっくりと、深呼吸を繰り返して身体が離れていく。名残惜しさに引き留めそうになった腕から力を抜いて解放する。
曖昧に笑う重荷をどうにかしたくて頬に触れ、けれどかける言葉が見当たらない。こういうとき、萩原であれば気の利いた言葉の二、三、口にできただろうに。
己の口下手に歯噛みしながら、松田はゆっくりと蝶野の手を取った。決して独りではないことを知ってほしい。みんなの中に自分を入れないこの人が、いつか自分を勘定に入れてくれるようになるまで。
そうしていつか、この人を抱きしめられる日が来るだろうか。
にも関わらず、その蝶野瞬という男は、相も変わらず松田の腕の中でスヨスヨと寝息を立てていた。流石に文句の一つや二つ言ってやろうと思っていた松田も思わずチャラにしてしまう程、穏やかで心地良さそうな寝顔である。
(信用されてんのは、嬉しいけどよ)
するりと顔を擦り寄せる蝶野に口元を緩ませつつ、恐る恐る頬にかかった髪の毛を耳にかける。顔に残った傷跡を指でなぞり、四年前の傷跡に思いを馳せた。
きっとこの人は、かつて負った傷の中でもその部分には答えてくれないだろう。大切に抱える幼馴染の記憶も、進んで話してくれるわけではない。
わずかに唸った想い人を抱き込んで、松田は目を閉じた。穏やかな寝息、確かな体温。緩やかに続く、あの日以来、誰も喪わない穏やかで暖かな日常が、この先も長く、永く続いていけばいい。
「おやすみ、瞬さん」
やはりどこまでも、この男の体温は心地良く眠れるのだと理解して、安心している自分を自覚した。その安心も、どこまでももう会うことのできない幼馴染の影を追っていることに気付いてしまえば罪悪感が募り、それでもいいとさえ宣う後輩に言いようのない居た堪れなさが折り重なる。
しっかりと巻きつく松田の腕を引き剥がし、布団から転がり出ようとして捕まった。ズルリと温かなシーツと毛布の間に引き戻される。
「……どこ、いくんすか」
夢と現の狭間を彷徨っているような覚束無い声で文句を訴えた松田は蝶野の頸に唇を押し付けた。腹に回された腕の力が強まる。足を絡ませ、より密着したところで、松田の意識が夢の中へと旅立った。突然のことに体を強張らせた蝶野が恐る恐る身動げば、またしても逃げられると勘違いしたのか、より拘束が強まる。
「ゔ……」
しっかりと力のこもる松田の手の上に手を重ねて隙間を作ろうとした直後、ビクリと松田の腕が跳ねた。大慌てで拘束が解かれる。
「……スンマセン」
「んじゃ、飯作りに行っていいか?」
ふわりと癖毛を撫でた蝶野は揶揄うように笑って松田に訊ねる。わずかに松田の眉間に皺が寄った。
「出掛けるのは今度にして今日はダラけたい?」
ベッドの端に座った蝶野の背中を抱き込むように凭れかかった松田は朧げな記憶を辿っていく。工具店に行こうという話をしていたのは萩原で、飯を食いに行こうと言っていたのは五つ上の先輩。猫カフェには、先日萩原を誘って行っていたためお呼びではないだろう。萩原の抜け駆けにやや不満はあるが、お陰で写真フォルダが随分と潤ったためチャラとした。
低く唸った松田ははたと行き先を思い出す。直前で断られることもないと信じてチケットも既に買っていた、けれど。
もう少しだけ、二人きりでゆっくり過ごしたい気もする。
再度ぐぅ、と唸った松田は蝶野と視線を合わせ、おもむろに重ねられた唇にぐるりと押し倒した。
目を丸くした蝶野の肩口に顔を埋め、指を絡めてから見下ろす。
「そういうのは、ちゃんと俺に惚れてからやってください」
こつりと額を合わせた松田はゆっくりとまばたきをして離れると首裏を掻きながら寝室から抜け出る。未だ大手を振って両想いとは言い難い想い人を腕の中に収めて微睡むつもりが、完全に覚醒した上に元気になってしまった。
深い溜息をついた松田は蝶野の足音を遠くに聞きながらトイレまで直行する。ありとあらゆる不純な感情を殺した添い寝は完遂できたというのに、やはり意思を持って迫られてしまうと弱い。萩原から借りたままのサングラスがあれば、もう少し上手く取り繕うことができただろうか。
(そういやサングラス、どこやったかな)
眉間に皺を寄せながらリビングに顔を出した松田は、見慣れたサングラスを掛けてマグカップを傾ける蝶野に硬直した。
「…………蝶野さん」
「なに。顔洗って着替えろよ」
ズズとマグカップの中身を啜った蝶野の表情はサングラスが遮って伺いきれない。サングラスを掛けている蝶野側からは少なくない動揺が筒抜けであるにも関わらず。
「ゴロゴロしてたいなら一人で行くけど」
「いや一人でゴロゴロしてても意味ねーだろ。なんでそうなるんだよ」
いそいそと顔を洗いに行き、着替えにと意識を向けた松田が頭を抱える。蝶野が着ていた灰色のタートルネックは自分が持ち込んだ私服ではないだろうか。あまりにも見覚えのある、萩原に見繕わせた中でも比較的よく着ていたデザインのものだ。曰く『さすが陣平ちゃん。ツラが良いだけあって甘めの服も似合うね』ということらしい。当時は適当に聞き流したが、今になって甘いデザインという言葉の意味が分かる気がする。
「一人でフラフラどっか行かないでくださいよ」
「言われなくてもちゃんと寮まで送ってやるから安心しろよ」
「は、……いや、そうじゃねぇ。つーか、その方が問題なんだっつの」
もはや書き慣れた外泊届けを頭の隅に置きつつ松田は眉間を片手で押さえた。
奇妙な同居生活はその実、同居とは名ばかりの外泊なのである。積み上がる外泊届けに寮を出るかと打診されたこともあったが、結局松田は居住区を寮から移したいと言い出せないままであった。
その理由は極めて明白だ。ここまできて蝶野に断られたりフラれでもしたら立ち直れる気がしない。確率にして二つ返事で受け入れられるが八、断られるが二、というのが松田の予想であるが、やはりその少数側に振れてしまう可能性が痛手なのである。
決断に対するブレーキなど、存在しなかったというのに。
「寮まで送られたら気まずいか。確かにな」
「そうすね。アンタの私服姿がカワイイって話題になったら嫌なんで」
「……? お前の服だろ」
「ああ。いつもの三倍クる」
距離を詰めた松田は閉口した蝶野の額に自身の額を押し当ててニヤリと笑い、耳まで赤く染めて仰け反った。機嫌を窺うように松田の唇と唇を押し当てた蝶野がくつくつと笑う。
「アンタ、さァ……!」
話聞いてなかったのかよ。サングラスを奪い返した松田はぎこちなく口元の表情を取り繕いながら、楽しそうな蝶野を見下ろした。つい先ほど、惚れてからにしてくれと言ったはずである。松田はわずかに首を傾げて見上げる蝶野に奥歯を噛み締めた。
「やめてください、本当に。勘違いしそうになる」
「松田のことは好きだよ」
アンタのその好きは俺の好きとは違うだろ。しかしその好きを否定したくもなかった松田は喉元まで出た言葉を飲み込んだ。マグカップを静かに置いた蝶野が、言い淀んだ松田の言葉の先に気付いて苦笑する。
それを思い違いと訂正できるほどの確信を持って向き合えている自信は、ない。
「喫茶店行きませんか。飯、まだすよね?」
ゆっくりと頷く蝶野に目を細めた松田はおもむろに手を伸ばし、するりと摺り寄せられた頬に硬直した。椅子を後ろに引いた蝶野はマグカップを片手に立ち上がると固まったままの松田の視界からふらりと姿を消す。
しばらくして再度松田の前に現れた蝶野はしっかりと白のチェスターコートを身に付けていた。
「行かねえの?」
「っ、う……い、きます」
カラカラと笑いながらも、やはり楽しみにはしていた様子に内心松田は安堵する。チケットまで取られていたから渋々行きます、という温度感であったら立ち直れなかったかもしれない。
「……やっぱり似合いますね」
そのコート、とも、その服、とも言えないまま蝶野の姿を上から下まで眺め直した松田はわずかにサングラスをずらした。困ったように下がる眉尻が可愛いと思う。
「置いて行くぞ」
「待ってくださいよ」
この人、俺とのデートを楽しみにしてたわけじゃなくて、ただただ水族館に行きたいだけじゃねえか。はたと真理に気がついてしまった松田は苦笑いすらできなかった。二人で出掛けるからと浮かれていたのは、どうやら自分だけだったらしい。言い得ぬ感情から目を逸らし、鍵を手にした蝶野に置いて行かれないよう慌ててコートを羽織る。
厄介事がなにも起きなければいい、と思ってしまうと何かしらが起きそうな気もするが、取り敢えずは休みを合わせて楽しみにしていただろう蝶野が楽しめれば良しとすることにした。
「松田じゃないか。一人でどうした? デートの下見か?」
厄介事が起きなければいいと思えば思うほど阻まれるものというのは定番らしい。
なんの因果か入場を果たした直後に見かけた見知った顔と目が合わないように逸らし続けていたが、あっさりとその相手に見つかってしまった松田は不本意な足止めを喰らってしまっていた。
「誰が一人でこんなとこ来るかよ」
言って、振り返った先に同行者はいなかった。一瞬にして下がった体温に喉がひゅうと音を立てる。辺りを見回してもあの白いコートは見当たらない。
「そう見栄を張らなくてもいいだろう。お前なら混ぜてやるぞ?」
揶揄うように言い募る初恋の相手への恋慕はもう昇華しているし、初デートと浮かれていた感情も途端に萎んでしまった。ダチと来たなら俺に構ってないでそのまま楽しんでりゃいいじゃねーか。言わずに飲み込む予定だった言葉がするりと松田の口から転がり落ちる。相手が蝶野さんだったなら、こんな失言もしなかっただろうに。
「そう拗ねるな。今度お前ともどこか──」
「行かねぇーよ。生憎そんな暇じゃあないんでね」
ぶっきらぼうに言い放った松田は、やはり話を聞いていなかったらしい蝶野を捜しに人混みに飛び込んで行った。
一方、意図せず松田を置いて行ってしまった蝶野は、正しく本当に一人で水族館を満喫していた。人混みを気にすることもなくのんびりと魚たちを眺めてはゆるりと進み、同行者がいなくなってしまっていることにも気が付かない。
「……蝶野さん?」
ふと掛けられた声を聞こえなかったことにして通り過ぎたい気持ち九割で応えれば、そこにはやはり端正な顔をして襟足の長い、長身の男が人好きする微笑みを湛えて蝶野を見ていた。
「あれ、陣平ちゃんは?」
キョロキョロと辺りを見回す萩原に釣られて蝶野も辺りを見回すが、なるほど、確かに入り口までは一緒にいたはずの後輩の姿がない。そこでようやく蝶野はまた同行者をどこかに置いてきてしまったことに気がついた。
しかし。
「まあ逸れたら三時に入り口って言ってあるし大丈夫だろ」
「いや、いやいやいや。陣平ちゃん絶対、絶ェ〜〜っ対に捜し回ってるから。連絡しますね」
「するほどのことでもねえだろ。……あ」
携帯を開いた蝶野は松田からの新着メッセージの量に閉口した。何度か電話もかかってきている。
ジッと携帯の画面を見つめる蝶野の正面から画面を覗き込んだ萩原は、特になにもせずに閉じられたそれに思わず両手で蝶野の手ごと携帯を包み込んだ。
「なんだよ」
「いや連絡。返信してあげてくださいよ」
「やだよ。一つ返そうとしてる間に五件も六件も送ってきやがるんだぞ」
「それは……」
流石に松田が不憫である、とは言い切れなくなってしまった。そもそも伊達の話ではかなりの連絡不精である蝶野が松田からのメールを読んでいるかも怪しい。それはそれで幼馴染が不憫だと思わなくもないのだが。
ブブ。手の中で携帯が震える。しばらく考えて、萩原は蝶野の片手を掴んだまま松田に電話を掛けた。ぶっきらぼうで苛立った幼馴染みの声。お前の捜し人は捕まえた。素っ頓狂な声を上げた松田が即座に場所を聞いてくる。鰯の水槽の前。簡素に答えてブツリと通話が切られたことを確認した萩原は「ほら、すごい心配してましたよ」と言おうとして、既に蝶野の関心が魚に戻っていることに気がついた。
恋人より魚ですか? 先輩。俺だったら勢いと圧で押し切って頷かせてしまっただけの、脈無しだと思って諦めるかも。諦めの悪い松田に感心半分、同情半分である。
「……あ、航くんとナタリーさん」
「え? あ、ホントだ。班長〜!」
「げ」
顔を引き攣らせた伊達に蝶野はひらりと手を振った。頭を抱えて深い溜息をついた伊達を不思議そうに見上げたナタリーが小さく笑う。面倒事を義弟に丸投げして、いそいそと鑑賞に戻ろうとした蝶野の手首を萩原が慌てて掴み止める。蝶野の深い溜息を萩原は聞かなかったことにした。まったく、油断も隙もない人だ。
「……あ。悪い、萩原」
するりと萩原の手から逃れた蝶野は、萩原を盾にするように身を屈めて周囲を警戒する。わずかに蒼褪めた顔で携帯を開いた蝶野は迷いなく松田に電話をかけた。
「先輩……?」
怪訝な顔をした萩原に隠れながら、数秒――わずか二コール分の間を置いて電話が繋がると、ふらりと蝶野が順路を逆走していく。
どうして今更渋っていた連絡を取る気になったのかと困惑を乗せて萩原は伊達を見上げた。てっきり自分と同じ方向を見ていると思っていた萩原は、伊達の視線が真逆を向いていたことを知り、辺りを見回す。伊達の視線の先にいたのは、四十代後半から五十代の凡庸な男である。連れはいなさそうであるが、伊達に睨み付けられるほど不審な様子はない。
「班長……?」
「いや、俺も詳しいことは分からねぇんだ」
松田なら知ってるかも知れねぇけど。言ってから、あの人の性格を考えたら知らない可能性の方が高いと気が付いて苦い顔をした伊達は、再度辺りを見回して溜息をついた。
「……で、警察学校の同期に彼女のこと紹介してくれないの?」
「あぁ、また今度な」
また今度。果たしてその今度は本当に来るのだろうか。訝しげな視線に「あの男、追ってくれねぇか?」伊達は萩原にこそりと耳打ちした。
萩原は快諾の軽い言葉と綺麗なウィンクを以ってその身を翻す。不安を表情に現したナタリーに穏やかに笑った伊達は「なるべく離れないでくれ」と、松田が蝶野に訴えた言葉を転がした。
◇◆◇◆◇
ふわりと体が浮く。ゆらりと視界が回り、空を切る。声が、聞こえた、ような気がした。落ちていると気付いたのはその数秒後のこと。男の悲鳴が耳を劈く。考えるより先に体が動いていた、などと言えば多少は許してもらえるだろうか。嘘では、ないのだけれど。
果たして、それは誰への言い訳だろうか。爆風、破片、これは不可抗力。
体が落ちる。視界が揺らぐ。激痛。犯人確保、赤い明滅。意識が途切れる。
目を覚ました真白な個室で真っ先に飛び込んだのは、酷く狼狽した端正な顔だった。くるりと跳ねた黒色の天然パーマが揺れる。
「先輩」
「調書、終わったのか」
「とっくに終わってますよ、そんなもん」
こちとらアンタが爆風と一緒に窓から落ちるのも見てたんだぞ。不満たらたらといった風に言い募る松田に蝶野は苦笑いを浮かべた。
「救助マットが間に合ってよかった」
「のほほんと笑って流せるモンじゃないだろ。気が気じゃなかったんすよ。しっかり骨折してるし」
そういえば診察に来た医者が骨折していると言っていたか。眉間に皺を寄せる松田に手を伸ばしてみれば右脚に痛みが走った。ベッドに片手をついた松田がズイと身を寄せる。
直後、騒がしい足音と共に病室の扉が開け放たれた。
「先ぱ――――おい松田ァ!」
肩で息をしながら詰め寄った萩原が松田を引き剥がす。不服そうな顔で大人しく引き剥がされる松田をおかしそうに笑った蝶野は、のそのそと体を起こした。しっかりと固定されているとはいえ右脚にビリビリと鈍い痛みが響く。容疑者と落ちて、着地も失敗したのだから仕方ないか。ひとり納得していた蝶野の意識を萩原の声が呼び戻す。
「寝込み襲うのはダメだろ!」
「襲ってねぇよ」
萩原に拘束されたまま言い返す松田の姿は、まるで飼い主に捕まった猫である。
(なんだったっけ。大きめの猫みたいな子犬?)
かつて幼馴染が鬼塚にした表現はやはり的を射て、他の言葉を並べる余地もない。警察学校時代の問題児を指してその表現を用いているからか、機動隊の猛獣使いと呼ばれていたらしいことは、警察庁への人事異動で知った。
曰く、彼らを飼い慣らせる人間は他にいないのだとか。
「まつだ」
柔らかく、わずかに幼さを含んだ声色に勝ち誇った笑みを浮かべた松田の拘束を解いた萩原は、ハラハラとしながら幼馴染の動向を注視した。
ゆるりと持ち上がった蝶野の手は、迎えに行くように屈んだ松田の頭頂部に下ろされる。
大人しく撫でられる幼馴染の後ろ姿はどことなく嬉しそうだ。姉に玉砕されていた頃や警察学校時代と比べ、わずかに大人びて落ち着きを覚えた松田の成長を噛み締めながら、付き合うに至らない二人の関係に歯噛みする。
松田が姉に挑んでは玉砕を繰り返していた時分には松田を応援していたし、姉である千速と松田がデートのような形になる応援もしていた萩原である。今では姉に想いを寄せる重悟に尻叩きをしているわけで、どちらにしてもどこか千速は楽しんでいる様子であったし満更でもなさそうであることも茶々入れの理由の一つではあった。
けれどこの二人ときたらどうだ。とっくに付き合っているかと思えば松田は踏み込まず、蝶野も好意があるのかないのか仕事仲間の一線を越えさせる様子がないのである。
近しい大切な人の幸福を、応援しない理由はないというのに。
「ごめんね」
「……今度、一緒に水族館行ってくれるなら、チャラにしてもいいスよ」
踏み込んだデートの約束に蝶野が苦笑した。いつ? 端的かつ前向きな言葉に、への字に曲がった松田の口角が数ミリ上がる。
「来月の四日。公休被ってるんで」
公休。非番でもない完全な休日。蝶野はほんのわずか、眉間に皺を寄せて「シフト通りに休めるかわかんねぇよ」臨時の午後休(というよりは早退か)と翌日の出勤も叶わないことを理解して唸った。
「アンタしっかり骨折してるんスよ、足。一ヶ月は療養期間だろ」
「やだよ、松葉杖ついて行くの」
「ならクリスマス。なんか予定は?」
「先約がある」
チ、と大きな舌打ち。誰とですか。踏み込んだ松田の言葉に蝶野は片眉を下げて曖昧に笑った。
「家族で過ごすもんだろ」
家族。それは太刀打ちできない。松田は閉口して拳を握った。仮に、友人や同僚、先輩後輩と言われたら食い下がっただろうかと考えて、結局この人の交友関係に割り入ろうとは思わなかっただろう。
結果、蝶野瞬にはすこぶる弱いという自覚を以て松田が黙り込んだ。
「…………、二十日」
苦い顔の松田を前に目を泳がせた蝶野はおずおずと呟く。
「来月の。多分もう復帰もできてるだろうし」
「……は、」
空けとけ、付き合ってやる。ぶっきらぼうな台詞に松田は口を半開きにしたまま瞬きを繰り返した。そうしてぽすりとベッドに身を倒した蝶野は追い払うように片手を振った。
――――と、そんなこんなで冒頭に戻る。
約束したときはただの仕事仲間であったが、今や晴れて恋人同士の、初デートだった。
片手に握った携帯が震える。また萩原か、今向かってっからもうちょい足止めしててくれ。閉じた携帯の、細く小さな電子板がキラリと表示した名前を二度見する。迷いなく通話ボタンを押した。
「蝶野さん、アンタ――」
「ごめん。ごめん、どこいる? くるま、もど、ってるわ」
「待ってください、今どこですか。蝶野さん、聞こえてますか? 蝶野さん!」
わずかに震えるか細い声に非常事態を察知した松田は館内マップを脳内に広げて蝶野の返答を待った。親子連れ、子供、カップルの声。どれもどこの区画でも聞こえる周囲の騒めきの中、松田は携帯の向こう側から無邪気な子供の声を拾い上げた。
(サメは、大水槽。さっき萩原は、イワシの水槽って言ってたはずだ。ってことは)
このまま順路に逆らった二つ先の区画あたり。萩原からの連絡で素通りしていたらしいことにも、初デートで恋人が純粋に一人で水族館を楽しんでいたことにも驚いた。ガシャリと落下音がして通話が切られる。慌てて辺りを見回した松田は壁に寄りかかる蝶野の背中を見つける。
手のひらを握り、ゆらりと壁伝いに一歩を踏み出した蝶野の足元には携帯が転がっていた。恋人より魚ですか。合流したら言ってやろうと思っていた文句も霧散していく。
「――――さん!」
誰かに呼びかける声と近づく足音にひゅう、と蝶野の喉が鳴る。目の前で立ち止まった見覚えのある靴と、視界に入った腕に一歩身を引いた。動けますか。ピタリと静止したその人の伺うような柔らかい声が遠くに聞こえる。けれど脳内に鳴り響く警鐘が鎮まらない。息を詰めてもう一歩、後退った。
早く、はやく逃げなければ。
――どこに?
「先輩。蝶野さん、俺のこと、分かりますか?」
大きく足を踏み出した松田はサングラスを外すと、びくりと肩を震わせた蝶野の頬に手を添えて視線を合わせる。浅い呼吸に情けなく眉尻を下げて怯えた様子の蝶野は数回瞬きをして、安心したように息を吐いた。まつだ。掻き消えてしまいそうな小さな声で呟いて、ゆらりと近づいた蝶野をそっと抱き止める。肩にかかる熱と重量に松田は小さく安堵の息を溢した。
「帰りましょう」
「ご、めん」
「いい。俺はアンタに無理させたくて誘ったわけじゃねぇから」
「で、も」
「手ェ震えてんの、分かりますよ。車の鍵貸してください」
外に跳ねた黒髪を梳る松田の手があやすように蝶野の背中を撫でる。ようやく呼吸が普段通りに回復した蝶野はぎゅうと松田を抱き締めた。
「……ごめん」
「謝んなよ。次はアンタから目ェ離さねぇんで」
首が左右に振られる。もう二度と一緒に出掛けたくないと言われたらどうしよう。思えば、この人が自分の腕の中にいるとき、首が縦に振られた記憶がない。一抹の不安を抱えながら、松田は蝶野の動向に身を委ねる。
「ごめん。萩原に言われるまで、いないの気付かなかった」
「……よか、ねぇけど。いいスよ、今回は」
蝶野からの拘束がわずかに強まる。そのままゆっくりと、深呼吸を繰り返して身体が離れていく。名残惜しさに引き留めそうになった腕から力を抜いて解放する。
曖昧に笑う重荷をどうにかしたくて頬に触れ、けれどかける言葉が見当たらない。こういうとき、萩原であれば気の利いた言葉の二、三、口にできただろうに。
己の口下手に歯噛みしながら、松田はゆっくりと蝶野の手を取った。決して独りではないことを知ってほしい。みんなの中に自分を入れないこの人が、いつか自分を勘定に入れてくれるようになるまで。
そうしていつか、この人を抱きしめられる日が来るだろうか。