常時非常事態とでも言うかのように起きる事件に奔走している最中、一本の緊急要請を受けた荻谷は制圧メンバーの一人として現場に急行した。
猟銃を凶器にした男が立てこもり事件を起こしているらしい。数ヶ月前に爆発物処理班が解決した立てこもり事件では小賢しくも警察官の指名があったが、今回その手の要求は現金と逃走用の車である。話し合いによる交渉は決裂気味であることが無線の様子から伺える。
突入指示が出れば即座に扉を蹴破って犯人の身柄確保に尽力しなければならない。同じ特殊犯とはいえ第三係である荻谷が一係の仕事に出向いているのは、都内で起きた誘拐事件と航空機強奪事件に人手を取られたからだった。
突入準備を万端に整え――ついに許可が降りた。数と勢いの勝負である。武装したSIT部隊の突入に追い詰められた犯人が銃を放つ。
どん。散弾銃が皮膚を抉った。視界が回る。騒がしい足音と振動。犯人の罵声と確保を知らせる怒声。手隙の隊員からの応急手当てを受けながら、遠くに、救急車の音を聞いた。
この土地は異常なほどに爆弾事件は多く、恐ろしいほどに殺人事件も起こる。なにも起こらなかった日が、果たしてあっただろうか。一週間ほど熱発を繰り返しながら生死の淵を彷徨っていた容体が安定して数日、意識を取り戻した荻谷はぼんやりと白い天井を見つめていた。油断したつもりはない。しばらくそのままぼんやりと天井を見つめていれば遠くに人の気配がする。数名の足音が近づく。
(……集中治療室。半分死んだか)
相当に当たりどころが悪かったらしいと分析しつつ、医者の声を右から左に聞き流していく。無駄に思考は回るくせに、声を正しく拾い上げて反応するだけの余裕はないらしい。再びゆっくり瞼を下ろして、次に荻谷が目覚めたのは二日後だった。明瞭になった意識と痛覚に苛まれながら数日を過ごし、一般病棟に移動した荻谷は欠伸を溢した。継続的な痛みに体が慣れてきたのか、動けない間の筋力低下をいかに補うか、というのが最近の荻谷の思考を占める議題である。
机の上に積まれた、動けない間の暇潰しにと持ち込まれた本を一冊スライドさせて分厚いカバーを開いた。文庫本も渡されたが、持ち上げなくていい硬さと安定感が都合良く、ハードカバーの単行本を読み漁っている。いないわけではないが、決して多くもない面会者たちは長居することもなく感謝の一言に尽きる。こうも的確に意図を汲んで貰えてしまうと、むしろ嫌われているような気さえするのだから厄介なものであるが。
からりと、静かに病室の扉が開く。荻谷は気にせず活字を目で追った。しばらく経っても扉の前から動く気配のない面会者を確認して、端正な顔が真っ直ぐに自分を見ていることに気がつく。
「おいでよ、萩原くん」
一瞬気まずそうな顔をして目を逸らした萩原は襟足に指を通してベッドに近寄った。うろうろと彷徨う視線を不思議に思っていれば「椅子、ないんですか?」困惑すら混ざった声色に荻谷は目を丸くする。今までの面会者でそんなことを聞いてきたヤツはいない。
しかし考えても見れば、面会者用の椅子は比較的いつでも用意されていることに今更気がついた。仮に入院することがあっても、椅子に座ってまで居座るような人間がいないため気にしたこともない。あまりの人望のなさに病院側から撤去されたか? とまで考えて、そういえば今朝方椅子を借りにきた人物がいたような記憶に行き当たる。随分と賑やかな声が聞こえてきていたため、恐らく隣の病室だろう。パタリと静まり返ってから、椅子を返しに訪れた者はいない。そもそもだ。
「オレと腰を据えて話したいことでもあんの?」
「せっかく会いに来たんですから、そりゃあ話したいに決まってるでしょ」
わざとらしく怒ったような仕草で軽やかに言ってみせた萩原に思わず荻谷が笑った。
「椅子、多分隣の病室から返ってきてない」
「どっち?」
本を閉じた荻谷は机の上を定住地としていた片手をわずかに持ち上げて真正面の壁を指さす。んじゃあ持って来ますかね。わずかに弾んだ声と嬉しそうな萩原の後ろ姿に思わず口角が緩んだ荻谷はひとり口元を手で覆った。
(一目惚れ……? 嘘だろ。そんなもんにうつつ抜かしてる場合じゃないだろ)
「――せんぱい」
どうかしました? しばらくピタリと固まってしまっていた荻谷に怪訝な顔で尋ねた萩原は静かに椅子を置いた。当然のように荻谷の隣である。荻谷は苦笑いしながら手のひらを額に当てた。
「今度にした方がいいすか?」
「大丈夫。みんな顔見て帰っていくから珍しいと思って」
「みんなもっと話したかったけど緊張する〜! て言ってましたよ」
からりと言った萩原から緊張の色が伺えない辺り、見舞いからの居座りには多少の慣れがあるらしい。そもそも仕事柄、病院に対して慣れてほしくはないのだが。生死の危険と常に隣り合わせに立たされる警察の最終砦に所属していたらそういうことにもなるやもしれない。事実、荻谷も爆発物処理班として生死の境を彷徨ったことがある。今回は特殊犯の刑事として生死の縁を彷徨ったわけだが。
「先輩モテモテすよね。秘訣とか裏技とかあるんすか?」
綺麗な顔をした女好き。なるほど確かにその文言は正しい。願わくば、それをしっかりと保って線を引き続けていてほしいものだ。間違って踏み越えることがないように。
荻谷は純粋な後輩の双眸を見つめてニヤリと笑みを浮かべた。
「ナイショ」
「えぇ! なんでぇ!」
「萩原くん元からモテてんだろ。若さで好きなコ掻っ攫われちゃ堪んねぇからな」
「年下派ですか?」
「ばーか、年齢差なんてなけりゃない方がいいだろ」
世間体とか、培ってきた価値観とか。あっさりと否定した荻谷に萩原が言葉を詰まらせる。
年齢差なんてなければない方がいい。そりゃあそうだ。その理由だって萩原には納得できる。けれど何故かどうにも、ちくりと胸が痛んだ。
「んで? 本題は」
目を泳がせる萩原を半目で見つめた荻谷が声の温度を下げて尋ねる。わずかに表情を暗くした萩原は思い悩むように腕を組んで唸った。このタイミングで悩むような話題なら、初めから持ち込まないでくれ。オレは単純だから簡単に勘違いするぞ。荻谷は両目を閉じた上で眉間に皺を寄せる萩原を目一杯眺めてやろう、と頬杖を付こうとして思い出したような痛みに呻いた。慌てて目を開いた萩原が心配そうな表情を浮かべる。
コロコロと変わる表情も可愛い。駄目だ、もうこれはガチじゃねえか。
瞬時に痛覚を上回った荻谷の焦りと葛藤を知る由もない萩原は、言外に先を促す荻谷に意を決したように口を開く。
「松田がさ、蝶野さん、殴っちゃって」
「あ?」
思わず溢れた想定外に低い荻谷の声に、萩原は慌てて取り繕う。
「陣平ちゃんもわざとやったんじゃなくって、俺もあれは腹立ったし、でも」
「待て萩原。オレが悪かった、話が見えん」
萩原の話を一旦止めた荻谷は「別に怒ってねーから」言葉を重ねて萩原を見た。わずかに目を見開いた萩原は一呼吸をおいて安堵の表情を浮かべる。
あれは凶器を持った容疑者が暴れて収拾がつかなくなったことが始まりであるが、そもそも強行手段に出ることも厭わないと判断した相手を煽った強行犯の刑事もまた、悪かった。説得するはずの刑事がなぜか容疑者の怒気と気迫に当てられて売り言葉に買い言葉。事態を悪化させたのである。見かねて萩原や他の刑事が宥めようとしたが、それがより発端の刑事の気に触ったのか本当に収拾がつかなくなってしまったところに、通りすがりの蝶野が容疑者とその刑事それぞれに一発入れたのだ。当然両者ともに激昂したが、刑事の方はそれが蝶野であることを理解した途端に正気を取り戻して顔を青褪めさせた。彼はこの一件の後、更にしっかりお灸を据えられているが、蝶野の冷めた眼差しの方がよっぽど精神に効いたことだろう。と、本題は彼のことではない。
蝶野からの手痛い一発を喰らい、それでも人質を取って逃げ遂せようと血迷った容疑者を前に到着した機動隊が盾と人数でもって容疑者を確保し、しっかりと捕縛されたとき、真っ直ぐに蝶野を睨め付け「ツラだけで全部許される無能! 地獄に堕ちろ!」そう言い放ったのである。
当然その場の誰もがそれを聞き流せるはずもなく、その中でも一番行動が早く容疑者との距離も近かった松田が条件反射で殴ろうとした。その光景に真っ先に体が動いた人物こそが、向けられた暴言にわずかばかり驚いていた蝶野である。正しくあれは蝶野でなければできなかったし、松田がもう当てるばかりの拳を途中で止めることもまた、できなかっただろう。松田は他の誰か、ましてや蝶野の割り込みがあることなど当然考えていなかっただろうし、蝶野は松田に殴られることも覚悟の上で割り込んだらしい。
結果、蝶野は意識を失い、松田は茫然自失で立ちすくんだ。萩原に意識を現実に引き戻された松田は頭を抱えて震えていたが、居座るわけにもいかないと機動隊の仲間たちに引き摺られるようにして連れ帰られている。
そうして松田が言い渡された三日間の謹慎処分中、まるで抜け殻のようにぼんやりとしたまま時間を過ごしただけでなく、業務復帰後もどこか様子がおかしいままであるという機動隊員からの相談が相次いだ。それはもう、泣き縋るように必死に。
つまり萩原は、どうにか親友を励ましたいのである。
静かに萩原の話を聞いていた荻谷は顎に指を当てて斜め下を見つめた。
「……猫、好きか?」
松田くん。脈絡のない荻谷の発言に虚を突かれた萩原はキョトンと目を丸くしながら幼馴染の顔を思い浮かべる。
「……好き、なんじゃないかな」
「じゃあ猫キャバとか行けよ」
「ねこ、きゃば……?」
首を傾げる萩原をよそに荻谷はカチカチと携帯を打ち込んでいく。なにやら長文を小気味よいリズムで打ち連ねる荻谷の言葉を待っていれば、萩原の携帯が振動した。送り主は目の前の男である。不思議に思いながらメールを開くと見知った猫カフェの名前と住所が書き記されていた。
「猫カフェ……?」
「そう、猫キャバ行って癒されて来たらいいだろ」
「いや、そういう単純な話じゃなくて」
「蝶野さん次の休みに駅の方行くらしいし、運命なら会えるかもな」
目を見開いてからキラキラと輝かせた萩原に荻谷は歯を見せて笑ってみせる。
「また連絡します!」
ガタリと立ち上がって慌ただしく病室から出ていく萩原の背中を見つめた荻谷は深い溜息をついた。
(……陣平ちゃん、ね。仲のよろしいことで)
もう完敗だ、これは。大して知りもしないくせに湧き上がるこの黒い感情には明確に名称がある。そうだ、これが嫉妬だ。どこにでもいる大多数の同業者の、ただ一人。ましてや同性。
居酒屋で彼が溢した応援したい友人とやらは恐らく松田陣平という幼馴染。つまり好きになる相手の性別について拘りも偏見もない。けれど彼の恋愛対象は、疑うまでもなく異性だろう。そして自分が同性から恋愛感情を向けられるとは、露ほども思っていない。だからこそフラットに距離が近いことも分かる。最悪だ。
(あの手のノンケが、一番タチ悪ぃんだよな)
苦い苦い失恋を、噛み砕く。
惚れた相手が幸せであれるならそれでいい。
降りかかる火の粉くらい、いくらでも払ってやろうじゃないか。
◇◆◇◆◇
どういうわけか退院の前日まで足繁く見舞いに通い続けていた萩原の真意が分からないまま、荻谷は退院後初となる食事を取るためにファミリーレストランを訪れていた。内勤であれば問題ないという許可をもらってしまったため、仕事復帰は明日からとなっている。
業務上の負傷とはいえ生死の狭間を彷徨ったために、滅多に連絡を取らない両親から容体を心配するメッセージが何件か来ていた。ちゃんと寝て、ちゃんと食べて、たまには家にも顔を出しなさい。いつ戻っても暖かく迎えてくれる家族の顔を思い浮かべ、胸にぽっかりと空いたままの空洞が埋まっていないことに安堵する。
忘れてはならない。忘れられるわけがない。
実家に戻ればその団欒に傷が抉られて、どうしようもない怨嗟と復讐心に呑まれて進むべき道を踏み外してしまうような気がした。
(十年経って、進展なし。世間はどうせ、なんにも覚えちゃいねーんだ)
ほうれん草のバター焼きを口に運ぶ。わずかに焦げた炭の臭いがバターとほうれん草の香りと混ざってあまり美味しくない。失敗だった。平日の昼間は学生バイトではなく社員が作っているというのはただの噂だったか。
灯りのない食卓、味付けの狂った料理、聞こえない声。
雨音、雷鳴。届かなかった手、泣き崩れる大人。
あの日、荻谷は確かに、すべてが跡形もなく崩れる音を聞いたのだ。なにを食べても碌に味はしないし、だからと言って食べなければ体が保たない。そんななにも見えない深淵の底から引き摺り上げてくれた相手は蝶野瞬であったし、けれどその瞬間、その瞳により深刻な暗闇と孤独を見た。あの先輩はその名の通り、ひらりと空を舞い、感情を殺して周囲の理想を羽織る掴みどころのない末恐ろしい男だ。そうしてそこでようやく、三年間の契約期間で築いた関係が薄氷のような虚像であり、自分はただの庇護対象で、友人としてすら認識されていなかったことを知った。
恋愛感情を抱いたつもりはなかったが、今思えばあれもある種の失恋であったか。
からりと、新規客の入店を知らせる鈴が鳴る。
スラリと伸びた長身に襟足の長い黒髪、顔こそ見えないが、そのシルエットはここ数日毎日会っていた五つ下の青年で、その隣にはやはり高身長で黒髪の天パにサングラスを掛けた青年がいた。幸運にも離れた席に案内された二人がなにやら深刻そうな表情を浮かべている様子に、ざわりと不快感が沸き立つ。
頭を振った荻谷はなにも見なかったことにして会計に立った。
ほとんど待つこともなく会計を済ませた荻谷ははたと萩原の語った予定を思い出した。猫と戯れた帰りのファミレスであるらしい。果たして、本当にただの幼馴染であるだろうか。
退店の間際に萩原と目が合ったような気はしたが、気のせいということにして車に乗り込んだ。警察の独身寮から出たのは去年のこと。捜査に駆られて帰宅できない日も多いが、流石にここまで一度も帰らなかったのは初めてのことである。
車を走らせて、曲がる信号を一つ間違えてから二、三と曲がっていたら自分の現在地が分からなくなってしまったため、近くに見えたコンビニの駐車場に一時避難した。カーナビに登録したマンションの住所を目的地に設定していたところで外側から窓を叩かれる。職質されるようなことをした覚えはないと外に目を向けると、見覚えのある美人が身を屈めてこちらを覗いていた。
ゆるりと窓を開ける。
「隣座っていいすか?」
「……どうぞ」
荻谷がどうしたと聞くより先に尋ねた萩原が颯爽と助手席に入り込む。
「ファミレス出てったの結構前なのに近くにいて驚きました。家、この辺なんすか?」
「いや……萩原くん警察寮? 送ろうか」
ナビの行き先を変更しようとした荻谷に「先輩の住んでるとこまで連れてってもらおうと思って」突拍子もない萩原の言葉に思考が止まる。数秒静止して萩原を見上げるが、撤回する気はないらしい。
「なんでだよ。大して親しくもないだろ」
「まあまあ、それはこれからってことで。だめすか」
「…………仕方ねぇな」
いつの間にかシートベルトまでしっかり締めている萩原に折れた荻谷はエンジンをかけるとサイドブレーキを下ろしてギアを入れた。ニコニコと上機嫌な萩原がカーステレオを押し込む。残念ながらCDは入っていない。カチカチとボタンを押し込んで音楽ラジオのチャンネルに合わせた萩原は満足そうに座席に背を預けた。
「意外とヤンキーみたいな運転するんすね」
「え?」
「車間距離の詰め方とか加速とか」
「……意外か?」
そっちすか? 萩原の台詞にそりゃそうだろ、とまで言いかけてブレーキを踏んだ。急ブレーキに車体が揺れる。自動車信号が黄色から赤に切り替わった。
「大抵イメージ通りすぎて嫌がられるからな。つーか、いつからオレがお前の先輩になったんだよ」
「俺、ちゃんと先輩の前以外じゃ荻谷さんって呼んでますよ」
柔らかく下がった目尻が狙ったように荻谷を見つめる。勝気な太眉が愛らしく憎らしい。青へと切り替わった信号にアクセルを踏み込んだ。
アクセル。そうか。この歳下の男には他人との距離感に対するブレーキがないのか。理性的で冷静に見えたが、周囲の人間による相乗効果であったわけだ。まんまと騙された。加点ポイントだ。そろそろ減点できる側面を垣間見ないと好意が上限を突破してしまう。
「荻谷さん、俺の前じゃいつも優しいでしょ。管轄も違うのに」
「そりゃお前、管轄も違うってのに、わざわざ毎日見舞いに来られたらそうなるだろ」
言い返そうとした萩原をカーナビの電子音声が遮った。食事を摂ったファミレスの前を通過する。そもそも車道に出る方向が間違っていたらしいことをそこで認識した。
「なんか用事あったんすか?」
久し振りに運転したものだから迷子になっていた、とはとても言えず荻谷は目を逸らして無言を貫いた。共に捜査を進める刑事や見知った相手が運転席を死守する理由の一つを、ここで明かす必要はない。
「じゃあ先輩、どんなコがタイプですか?」
「…………黒髪ロングの綿菓子みてーな美人かな」
「ほとんど俺じゃないですか」
「……そうだな」
半ば体ごと萩原の視線が荻谷に向いた。自分で仕掛けたくせにその態度はないだろう。荻谷は運転中ということもあり一瞬萩原を横目に見て――耳まで紅くしているその人に奥歯を噛み締めた。
が、敢えてなにも見なかったことにしておく。
「そんなあからさまにビビって引くなよ、冗談でも流石に傷付く」
「え、いや……そうやって女の子口説いてるんだなと思って」
「……ドキッとした?」
揶揄うように言ってやれば萩原は笑って誤魔化した。
やめてくれ。オレはまだ、綺麗な感情でお前を見守っていたい。
◇◆◇◆◇
「あ、荻谷さん。今帰りですか?」
本庁の自販機で缶コーヒーを買った荻谷に声を掛けたのは、先日荻谷がなんだかんだとマンションまで招き入れてしまった他部署の後輩である。カシャンカシャンと返却される釣り銭を自販機に入れてココアのボタンを押した。
コーヒーとココアを取り出して、ココアを萩原に投げる。驚きつつも受け取った萩原を横目に荻谷はプルタブを起こした。
「捜査でカンヅメよ」
重い前髪が影を作るのとは別の陰を目の下に浮かべた荻谷は疲労の滲む声で萩原に答える。言葉への反応速度がわずかに遅い。
萩原はおもむろにアイスココアの缶を荻谷の頬へと押し付けた。突然のことに肩を跳ねさせた荻谷の手から缶コーヒーが宙に浮く。慌てて掴み直そうとしたその缶はしかし、荻谷の指先に当たってくるりと上下を変える。途中、溢れ出したコーヒーが荻谷のシャツにシミを作り、スーツのズボンに臭いを染みつけて床に水溜りならぬコーヒー溜まりを作った。
カシャン、カラコロと空っぽになったスチール缶が音を立てて転がる。萩原は荻谷のその動揺っぷりに思わず腹を抱えて笑った。
のそのそと空き缶を拾い上げ、自販機横のゴミ箱に捨てた荻谷は無言で萩原の頭に手刀をかます。笑い転げていた萩原は真剣白刃取りに失敗した。
「荻谷警部補、どうかさ――」
物音に駆け寄ってきた、萩原より先輩に当たるだろう巡査部長が慌てて「拭くもの持って来ます」と踵を返す。
「……コーヒーは飲むよりぶち撒ける方が目が醒めるな」
慌ただしい足音を見送った荻谷がぼそりと呟けば、萩原はまた笑った。
「そんなに難航してるんですか?」
「……今の機動隊にゃ蝶野さんがいね〜から、入れ替わりで出向してる察庁の指揮官とピリッピリなんだよ。お陰でこっちにも被弾してんだけど、隊長が治めようにも松田くんをはじめとした爆処の拗ねがエグくて」
溜息をついた荻谷の元に先ほどの警察官が舞い戻り、綺麗なタオルを荻谷に渡すと、雑巾用らしいタオルをコーヒーで汚れた床の上に落として拭き取る。
「ごめんね、ありがとう」
「はっ……はい! いいえ!」
目線を合わせるようにしゃがみ込んだ荻谷に気付いて顔を上げた男は、想定外の至近距離に顔を紅潮させて両手を振った。荻谷は後輩に当たるだろう男の反応を気にした様子もなく、床に置き去りにされたタオルで足元を拭いていく。大慌てで荻谷からタオルの使用権を取り戻した巡査部長の男は床を拭き上げると共にピシリと立ち上がった。
おかしそうに笑いながら立ち上がる荻谷に手本のような敬礼を見せる。
「自分は荻谷警部補に憧れて警察官になりました! 坂本海といいます!!」
きらりと目を輝かせて名乗りをあげた男にわずかに目を見開いた荻谷は、柔和に微笑むと形式的に敬礼を返した。歓喜に満ちた表情で荻谷を見上げた坂本は、荻谷に渡していた綺麗なタオルを受け取ってくるりと九十度に回転しては来た通路を戻っていく。スキップでもするかのような足取りの背中をくつくつと笑いながら見送っていた荻谷は、当然先ほどまで笑い転げていた萩原の表情がわずかに不満に翳ったことには気付かなかった。
「面白いな。どこの子だろ」
「所属が分かったら先輩は会いに行くんですか?」
「暇になったらな」
まあこの土地で刑事やってて暇になる日なんてねーけどな。あっけらかんと言う荻谷に「俺は捜査一課の強行犯三係すよ」にこりと笑って萩原が言う。
知ってる。どうした。思わず怪訝な顔で言い返した荻谷に萩原は手のひらの上で缶ココアを跳ねさせた。
「所属教えたら、先輩が会いに来てくれるんじゃないんすか?」
「お前なぁ……そんなことよりアレなんとかしてくれよ。仲良いだろ?」
「え……? あ〜……流石に今の陣平ちゃんは蝶野先輩じゃなきゃ無理すよ」
幼馴染で親友の研二くんでもあの恋煩いには太刀打ちできません。お手上げ、というジャスチャーをした萩原に、手のひらを額に押し当てた荻谷が深い溜息をつく。
「……あれが、あと二年……? ハハ、悪夢か……」
ぶつぶつと呟いて項垂れる荻谷に片眉を下げた萩原はある好奇心の元、一つの案を思いついた。
「先輩なら蝶野さん、呼び出せますよね?」
「……あのね、」
荻谷と同じ所属らしいスーツの男が、荻谷を呼びながら駆け付けたことで会話が中断される。疲れた顔で応答する荻谷を眺めながら、萩原はココアのプルタブを起こした。せっかく萩原が見つけて呼び止めた男は、後輩に仕事に引っ張り凧らしい。
去り際、荻谷がチラリと振り向いて手を振らなければ、萩原の機嫌はそこそこ悪いままだっただろう。カチリと携帯を開いた萩原は松田に一本のメールを作成した。
結果、松田の機嫌は悪くなり、特殊犯への態度は軟化した。と、後の萩原は聞くことになる。萩原はこれを、荻谷が自分に作った一つの大きな借りとして認識することにした。
猟銃を凶器にした男が立てこもり事件を起こしているらしい。数ヶ月前に爆発物処理班が解決した立てこもり事件では小賢しくも警察官の指名があったが、今回その手の要求は現金と逃走用の車である。話し合いによる交渉は決裂気味であることが無線の様子から伺える。
突入指示が出れば即座に扉を蹴破って犯人の身柄確保に尽力しなければならない。同じ特殊犯とはいえ第三係である荻谷が一係の仕事に出向いているのは、都内で起きた誘拐事件と航空機強奪事件に人手を取られたからだった。
突入準備を万端に整え――ついに許可が降りた。数と勢いの勝負である。武装したSIT部隊の突入に追い詰められた犯人が銃を放つ。
どん。散弾銃が皮膚を抉った。視界が回る。騒がしい足音と振動。犯人の罵声と確保を知らせる怒声。手隙の隊員からの応急手当てを受けながら、遠くに、救急車の音を聞いた。
この土地は異常なほどに爆弾事件は多く、恐ろしいほどに殺人事件も起こる。なにも起こらなかった日が、果たしてあっただろうか。一週間ほど熱発を繰り返しながら生死の淵を彷徨っていた容体が安定して数日、意識を取り戻した荻谷はぼんやりと白い天井を見つめていた。油断したつもりはない。しばらくそのままぼんやりと天井を見つめていれば遠くに人の気配がする。数名の足音が近づく。
(……集中治療室。半分死んだか)
相当に当たりどころが悪かったらしいと分析しつつ、医者の声を右から左に聞き流していく。無駄に思考は回るくせに、声を正しく拾い上げて反応するだけの余裕はないらしい。再びゆっくり瞼を下ろして、次に荻谷が目覚めたのは二日後だった。明瞭になった意識と痛覚に苛まれながら数日を過ごし、一般病棟に移動した荻谷は欠伸を溢した。継続的な痛みに体が慣れてきたのか、動けない間の筋力低下をいかに補うか、というのが最近の荻谷の思考を占める議題である。
机の上に積まれた、動けない間の暇潰しにと持ち込まれた本を一冊スライドさせて分厚いカバーを開いた。文庫本も渡されたが、持ち上げなくていい硬さと安定感が都合良く、ハードカバーの単行本を読み漁っている。いないわけではないが、決して多くもない面会者たちは長居することもなく感謝の一言に尽きる。こうも的確に意図を汲んで貰えてしまうと、むしろ嫌われているような気さえするのだから厄介なものであるが。
からりと、静かに病室の扉が開く。荻谷は気にせず活字を目で追った。しばらく経っても扉の前から動く気配のない面会者を確認して、端正な顔が真っ直ぐに自分を見ていることに気がつく。
「おいでよ、萩原くん」
一瞬気まずそうな顔をして目を逸らした萩原は襟足に指を通してベッドに近寄った。うろうろと彷徨う視線を不思議に思っていれば「椅子、ないんですか?」困惑すら混ざった声色に荻谷は目を丸くする。今までの面会者でそんなことを聞いてきたヤツはいない。
しかし考えても見れば、面会者用の椅子は比較的いつでも用意されていることに今更気がついた。仮に入院することがあっても、椅子に座ってまで居座るような人間がいないため気にしたこともない。あまりの人望のなさに病院側から撤去されたか? とまで考えて、そういえば今朝方椅子を借りにきた人物がいたような記憶に行き当たる。随分と賑やかな声が聞こえてきていたため、恐らく隣の病室だろう。パタリと静まり返ってから、椅子を返しに訪れた者はいない。そもそもだ。
「オレと腰を据えて話したいことでもあんの?」
「せっかく会いに来たんですから、そりゃあ話したいに決まってるでしょ」
わざとらしく怒ったような仕草で軽やかに言ってみせた萩原に思わず荻谷が笑った。
「椅子、多分隣の病室から返ってきてない」
「どっち?」
本を閉じた荻谷は机の上を定住地としていた片手をわずかに持ち上げて真正面の壁を指さす。んじゃあ持って来ますかね。わずかに弾んだ声と嬉しそうな萩原の後ろ姿に思わず口角が緩んだ荻谷はひとり口元を手で覆った。
(一目惚れ……? 嘘だろ。そんなもんにうつつ抜かしてる場合じゃないだろ)
「――せんぱい」
どうかしました? しばらくピタリと固まってしまっていた荻谷に怪訝な顔で尋ねた萩原は静かに椅子を置いた。当然のように荻谷の隣である。荻谷は苦笑いしながら手のひらを額に当てた。
「今度にした方がいいすか?」
「大丈夫。みんな顔見て帰っていくから珍しいと思って」
「みんなもっと話したかったけど緊張する〜! て言ってましたよ」
からりと言った萩原から緊張の色が伺えない辺り、見舞いからの居座りには多少の慣れがあるらしい。そもそも仕事柄、病院に対して慣れてほしくはないのだが。生死の危険と常に隣り合わせに立たされる警察の最終砦に所属していたらそういうことにもなるやもしれない。事実、荻谷も爆発物処理班として生死の境を彷徨ったことがある。今回は特殊犯の刑事として生死の縁を彷徨ったわけだが。
「先輩モテモテすよね。秘訣とか裏技とかあるんすか?」
綺麗な顔をした女好き。なるほど確かにその文言は正しい。願わくば、それをしっかりと保って線を引き続けていてほしいものだ。間違って踏み越えることがないように。
荻谷は純粋な後輩の双眸を見つめてニヤリと笑みを浮かべた。
「ナイショ」
「えぇ! なんでぇ!」
「萩原くん元からモテてんだろ。若さで好きなコ掻っ攫われちゃ堪んねぇからな」
「年下派ですか?」
「ばーか、年齢差なんてなけりゃない方がいいだろ」
世間体とか、培ってきた価値観とか。あっさりと否定した荻谷に萩原が言葉を詰まらせる。
年齢差なんてなければない方がいい。そりゃあそうだ。その理由だって萩原には納得できる。けれど何故かどうにも、ちくりと胸が痛んだ。
「んで? 本題は」
目を泳がせる萩原を半目で見つめた荻谷が声の温度を下げて尋ねる。わずかに表情を暗くした萩原は思い悩むように腕を組んで唸った。このタイミングで悩むような話題なら、初めから持ち込まないでくれ。オレは単純だから簡単に勘違いするぞ。荻谷は両目を閉じた上で眉間に皺を寄せる萩原を目一杯眺めてやろう、と頬杖を付こうとして思い出したような痛みに呻いた。慌てて目を開いた萩原が心配そうな表情を浮かべる。
コロコロと変わる表情も可愛い。駄目だ、もうこれはガチじゃねえか。
瞬時に痛覚を上回った荻谷の焦りと葛藤を知る由もない萩原は、言外に先を促す荻谷に意を決したように口を開く。
「松田がさ、蝶野さん、殴っちゃって」
「あ?」
思わず溢れた想定外に低い荻谷の声に、萩原は慌てて取り繕う。
「陣平ちゃんもわざとやったんじゃなくって、俺もあれは腹立ったし、でも」
「待て萩原。オレが悪かった、話が見えん」
萩原の話を一旦止めた荻谷は「別に怒ってねーから」言葉を重ねて萩原を見た。わずかに目を見開いた萩原は一呼吸をおいて安堵の表情を浮かべる。
あれは凶器を持った容疑者が暴れて収拾がつかなくなったことが始まりであるが、そもそも強行手段に出ることも厭わないと判断した相手を煽った強行犯の刑事もまた、悪かった。説得するはずの刑事がなぜか容疑者の怒気と気迫に当てられて売り言葉に買い言葉。事態を悪化させたのである。見かねて萩原や他の刑事が宥めようとしたが、それがより発端の刑事の気に触ったのか本当に収拾がつかなくなってしまったところに、通りすがりの蝶野が容疑者とその刑事それぞれに一発入れたのだ。当然両者ともに激昂したが、刑事の方はそれが蝶野であることを理解した途端に正気を取り戻して顔を青褪めさせた。彼はこの一件の後、更にしっかりお灸を据えられているが、蝶野の冷めた眼差しの方がよっぽど精神に効いたことだろう。と、本題は彼のことではない。
蝶野からの手痛い一発を喰らい、それでも人質を取って逃げ遂せようと血迷った容疑者を前に到着した機動隊が盾と人数でもって容疑者を確保し、しっかりと捕縛されたとき、真っ直ぐに蝶野を睨め付け「ツラだけで全部許される無能! 地獄に堕ちろ!」そう言い放ったのである。
当然その場の誰もがそれを聞き流せるはずもなく、その中でも一番行動が早く容疑者との距離も近かった松田が条件反射で殴ろうとした。その光景に真っ先に体が動いた人物こそが、向けられた暴言にわずかばかり驚いていた蝶野である。正しくあれは蝶野でなければできなかったし、松田がもう当てるばかりの拳を途中で止めることもまた、できなかっただろう。松田は他の誰か、ましてや蝶野の割り込みがあることなど当然考えていなかっただろうし、蝶野は松田に殴られることも覚悟の上で割り込んだらしい。
結果、蝶野は意識を失い、松田は茫然自失で立ちすくんだ。萩原に意識を現実に引き戻された松田は頭を抱えて震えていたが、居座るわけにもいかないと機動隊の仲間たちに引き摺られるようにして連れ帰られている。
そうして松田が言い渡された三日間の謹慎処分中、まるで抜け殻のようにぼんやりとしたまま時間を過ごしただけでなく、業務復帰後もどこか様子がおかしいままであるという機動隊員からの相談が相次いだ。それはもう、泣き縋るように必死に。
つまり萩原は、どうにか親友を励ましたいのである。
静かに萩原の話を聞いていた荻谷は顎に指を当てて斜め下を見つめた。
「……猫、好きか?」
松田くん。脈絡のない荻谷の発言に虚を突かれた萩原はキョトンと目を丸くしながら幼馴染の顔を思い浮かべる。
「……好き、なんじゃないかな」
「じゃあ猫キャバとか行けよ」
「ねこ、きゃば……?」
首を傾げる萩原をよそに荻谷はカチカチと携帯を打ち込んでいく。なにやら長文を小気味よいリズムで打ち連ねる荻谷の言葉を待っていれば、萩原の携帯が振動した。送り主は目の前の男である。不思議に思いながらメールを開くと見知った猫カフェの名前と住所が書き記されていた。
「猫カフェ……?」
「そう、猫キャバ行って癒されて来たらいいだろ」
「いや、そういう単純な話じゃなくて」
「蝶野さん次の休みに駅の方行くらしいし、運命なら会えるかもな」
目を見開いてからキラキラと輝かせた萩原に荻谷は歯を見せて笑ってみせる。
「また連絡します!」
ガタリと立ち上がって慌ただしく病室から出ていく萩原の背中を見つめた荻谷は深い溜息をついた。
(……陣平ちゃん、ね。仲のよろしいことで)
もう完敗だ、これは。大して知りもしないくせに湧き上がるこの黒い感情には明確に名称がある。そうだ、これが嫉妬だ。どこにでもいる大多数の同業者の、ただ一人。ましてや同性。
居酒屋で彼が溢した応援したい友人とやらは恐らく松田陣平という幼馴染。つまり好きになる相手の性別について拘りも偏見もない。けれど彼の恋愛対象は、疑うまでもなく異性だろう。そして自分が同性から恋愛感情を向けられるとは、露ほども思っていない。だからこそフラットに距離が近いことも分かる。最悪だ。
(あの手のノンケが、一番タチ悪ぃんだよな)
苦い苦い失恋を、噛み砕く。
惚れた相手が幸せであれるならそれでいい。
降りかかる火の粉くらい、いくらでも払ってやろうじゃないか。
◇◆◇◆◇
どういうわけか退院の前日まで足繁く見舞いに通い続けていた萩原の真意が分からないまま、荻谷は退院後初となる食事を取るためにファミリーレストランを訪れていた。内勤であれば問題ないという許可をもらってしまったため、仕事復帰は明日からとなっている。
業務上の負傷とはいえ生死の狭間を彷徨ったために、滅多に連絡を取らない両親から容体を心配するメッセージが何件か来ていた。ちゃんと寝て、ちゃんと食べて、たまには家にも顔を出しなさい。いつ戻っても暖かく迎えてくれる家族の顔を思い浮かべ、胸にぽっかりと空いたままの空洞が埋まっていないことに安堵する。
忘れてはならない。忘れられるわけがない。
実家に戻ればその団欒に傷が抉られて、どうしようもない怨嗟と復讐心に呑まれて進むべき道を踏み外してしまうような気がした。
(十年経って、進展なし。世間はどうせ、なんにも覚えちゃいねーんだ)
ほうれん草のバター焼きを口に運ぶ。わずかに焦げた炭の臭いがバターとほうれん草の香りと混ざってあまり美味しくない。失敗だった。平日の昼間は学生バイトではなく社員が作っているというのはただの噂だったか。
灯りのない食卓、味付けの狂った料理、聞こえない声。
雨音、雷鳴。届かなかった手、泣き崩れる大人。
あの日、荻谷は確かに、すべてが跡形もなく崩れる音を聞いたのだ。なにを食べても碌に味はしないし、だからと言って食べなければ体が保たない。そんななにも見えない深淵の底から引き摺り上げてくれた相手は蝶野瞬であったし、けれどその瞬間、その瞳により深刻な暗闇と孤独を見た。あの先輩はその名の通り、ひらりと空を舞い、感情を殺して周囲の理想を羽織る掴みどころのない末恐ろしい男だ。そうしてそこでようやく、三年間の契約期間で築いた関係が薄氷のような虚像であり、自分はただの庇護対象で、友人としてすら認識されていなかったことを知った。
恋愛感情を抱いたつもりはなかったが、今思えばあれもある種の失恋であったか。
からりと、新規客の入店を知らせる鈴が鳴る。
スラリと伸びた長身に襟足の長い黒髪、顔こそ見えないが、そのシルエットはここ数日毎日会っていた五つ下の青年で、その隣にはやはり高身長で黒髪の天パにサングラスを掛けた青年がいた。幸運にも離れた席に案内された二人がなにやら深刻そうな表情を浮かべている様子に、ざわりと不快感が沸き立つ。
頭を振った荻谷はなにも見なかったことにして会計に立った。
ほとんど待つこともなく会計を済ませた荻谷ははたと萩原の語った予定を思い出した。猫と戯れた帰りのファミレスであるらしい。果たして、本当にただの幼馴染であるだろうか。
退店の間際に萩原と目が合ったような気はしたが、気のせいということにして車に乗り込んだ。警察の独身寮から出たのは去年のこと。捜査に駆られて帰宅できない日も多いが、流石にここまで一度も帰らなかったのは初めてのことである。
車を走らせて、曲がる信号を一つ間違えてから二、三と曲がっていたら自分の現在地が分からなくなってしまったため、近くに見えたコンビニの駐車場に一時避難した。カーナビに登録したマンションの住所を目的地に設定していたところで外側から窓を叩かれる。職質されるようなことをした覚えはないと外に目を向けると、見覚えのある美人が身を屈めてこちらを覗いていた。
ゆるりと窓を開ける。
「隣座っていいすか?」
「……どうぞ」
荻谷がどうしたと聞くより先に尋ねた萩原が颯爽と助手席に入り込む。
「ファミレス出てったの結構前なのに近くにいて驚きました。家、この辺なんすか?」
「いや……萩原くん警察寮? 送ろうか」
ナビの行き先を変更しようとした荻谷に「先輩の住んでるとこまで連れてってもらおうと思って」突拍子もない萩原の言葉に思考が止まる。数秒静止して萩原を見上げるが、撤回する気はないらしい。
「なんでだよ。大して親しくもないだろ」
「まあまあ、それはこれからってことで。だめすか」
「…………仕方ねぇな」
いつの間にかシートベルトまでしっかり締めている萩原に折れた荻谷はエンジンをかけるとサイドブレーキを下ろしてギアを入れた。ニコニコと上機嫌な萩原がカーステレオを押し込む。残念ながらCDは入っていない。カチカチとボタンを押し込んで音楽ラジオのチャンネルに合わせた萩原は満足そうに座席に背を預けた。
「意外とヤンキーみたいな運転するんすね」
「え?」
「車間距離の詰め方とか加速とか」
「……意外か?」
そっちすか? 萩原の台詞にそりゃそうだろ、とまで言いかけてブレーキを踏んだ。急ブレーキに車体が揺れる。自動車信号が黄色から赤に切り替わった。
「大抵イメージ通りすぎて嫌がられるからな。つーか、いつからオレがお前の先輩になったんだよ」
「俺、ちゃんと先輩の前以外じゃ荻谷さんって呼んでますよ」
柔らかく下がった目尻が狙ったように荻谷を見つめる。勝気な太眉が愛らしく憎らしい。青へと切り替わった信号にアクセルを踏み込んだ。
アクセル。そうか。この歳下の男には他人との距離感に対するブレーキがないのか。理性的で冷静に見えたが、周囲の人間による相乗効果であったわけだ。まんまと騙された。加点ポイントだ。そろそろ減点できる側面を垣間見ないと好意が上限を突破してしまう。
「荻谷さん、俺の前じゃいつも優しいでしょ。管轄も違うのに」
「そりゃお前、管轄も違うってのに、わざわざ毎日見舞いに来られたらそうなるだろ」
言い返そうとした萩原をカーナビの電子音声が遮った。食事を摂ったファミレスの前を通過する。そもそも車道に出る方向が間違っていたらしいことをそこで認識した。
「なんか用事あったんすか?」
久し振りに運転したものだから迷子になっていた、とはとても言えず荻谷は目を逸らして無言を貫いた。共に捜査を進める刑事や見知った相手が運転席を死守する理由の一つを、ここで明かす必要はない。
「じゃあ先輩、どんなコがタイプですか?」
「…………黒髪ロングの綿菓子みてーな美人かな」
「ほとんど俺じゃないですか」
「……そうだな」
半ば体ごと萩原の視線が荻谷に向いた。自分で仕掛けたくせにその態度はないだろう。荻谷は運転中ということもあり一瞬萩原を横目に見て――耳まで紅くしているその人に奥歯を噛み締めた。
が、敢えてなにも見なかったことにしておく。
「そんなあからさまにビビって引くなよ、冗談でも流石に傷付く」
「え、いや……そうやって女の子口説いてるんだなと思って」
「……ドキッとした?」
揶揄うように言ってやれば萩原は笑って誤魔化した。
やめてくれ。オレはまだ、綺麗な感情でお前を見守っていたい。
◇◆◇◆◇
「あ、荻谷さん。今帰りですか?」
本庁の自販機で缶コーヒーを買った荻谷に声を掛けたのは、先日荻谷がなんだかんだとマンションまで招き入れてしまった他部署の後輩である。カシャンカシャンと返却される釣り銭を自販機に入れてココアのボタンを押した。
コーヒーとココアを取り出して、ココアを萩原に投げる。驚きつつも受け取った萩原を横目に荻谷はプルタブを起こした。
「捜査でカンヅメよ」
重い前髪が影を作るのとは別の陰を目の下に浮かべた荻谷は疲労の滲む声で萩原に答える。言葉への反応速度がわずかに遅い。
萩原はおもむろにアイスココアの缶を荻谷の頬へと押し付けた。突然のことに肩を跳ねさせた荻谷の手から缶コーヒーが宙に浮く。慌てて掴み直そうとしたその缶はしかし、荻谷の指先に当たってくるりと上下を変える。途中、溢れ出したコーヒーが荻谷のシャツにシミを作り、スーツのズボンに臭いを染みつけて床に水溜りならぬコーヒー溜まりを作った。
カシャン、カラコロと空っぽになったスチール缶が音を立てて転がる。萩原は荻谷のその動揺っぷりに思わず腹を抱えて笑った。
のそのそと空き缶を拾い上げ、自販機横のゴミ箱に捨てた荻谷は無言で萩原の頭に手刀をかます。笑い転げていた萩原は真剣白刃取りに失敗した。
「荻谷警部補、どうかさ――」
物音に駆け寄ってきた、萩原より先輩に当たるだろう巡査部長が慌てて「拭くもの持って来ます」と踵を返す。
「……コーヒーは飲むよりぶち撒ける方が目が醒めるな」
慌ただしい足音を見送った荻谷がぼそりと呟けば、萩原はまた笑った。
「そんなに難航してるんですか?」
「……今の機動隊にゃ蝶野さんがいね〜から、入れ替わりで出向してる察庁の指揮官とピリッピリなんだよ。お陰でこっちにも被弾してんだけど、隊長が治めようにも松田くんをはじめとした爆処の拗ねがエグくて」
溜息をついた荻谷の元に先ほどの警察官が舞い戻り、綺麗なタオルを荻谷に渡すと、雑巾用らしいタオルをコーヒーで汚れた床の上に落として拭き取る。
「ごめんね、ありがとう」
「はっ……はい! いいえ!」
目線を合わせるようにしゃがみ込んだ荻谷に気付いて顔を上げた男は、想定外の至近距離に顔を紅潮させて両手を振った。荻谷は後輩に当たるだろう男の反応を気にした様子もなく、床に置き去りにされたタオルで足元を拭いていく。大慌てで荻谷からタオルの使用権を取り戻した巡査部長の男は床を拭き上げると共にピシリと立ち上がった。
おかしそうに笑いながら立ち上がる荻谷に手本のような敬礼を見せる。
「自分は荻谷警部補に憧れて警察官になりました! 坂本海といいます!!」
きらりと目を輝かせて名乗りをあげた男にわずかに目を見開いた荻谷は、柔和に微笑むと形式的に敬礼を返した。歓喜に満ちた表情で荻谷を見上げた坂本は、荻谷に渡していた綺麗なタオルを受け取ってくるりと九十度に回転しては来た通路を戻っていく。スキップでもするかのような足取りの背中をくつくつと笑いながら見送っていた荻谷は、当然先ほどまで笑い転げていた萩原の表情がわずかに不満に翳ったことには気付かなかった。
「面白いな。どこの子だろ」
「所属が分かったら先輩は会いに行くんですか?」
「暇になったらな」
まあこの土地で刑事やってて暇になる日なんてねーけどな。あっけらかんと言う荻谷に「俺は捜査一課の強行犯三係すよ」にこりと笑って萩原が言う。
知ってる。どうした。思わず怪訝な顔で言い返した荻谷に萩原は手のひらの上で缶ココアを跳ねさせた。
「所属教えたら、先輩が会いに来てくれるんじゃないんすか?」
「お前なぁ……そんなことよりアレなんとかしてくれよ。仲良いだろ?」
「え……? あ〜……流石に今の陣平ちゃんは蝶野先輩じゃなきゃ無理すよ」
幼馴染で親友の研二くんでもあの恋煩いには太刀打ちできません。お手上げ、というジャスチャーをした萩原に、手のひらを額に押し当てた荻谷が深い溜息をつく。
「……あれが、あと二年……? ハハ、悪夢か……」
ぶつぶつと呟いて項垂れる荻谷に片眉を下げた萩原はある好奇心の元、一つの案を思いついた。
「先輩なら蝶野さん、呼び出せますよね?」
「……あのね、」
荻谷と同じ所属らしいスーツの男が、荻谷を呼びながら駆け付けたことで会話が中断される。疲れた顔で応答する荻谷を眺めながら、萩原はココアのプルタブを起こした。せっかく萩原が見つけて呼び止めた男は、後輩に仕事に引っ張り凧らしい。
去り際、荻谷がチラリと振り向いて手を振らなければ、萩原の機嫌はそこそこ悪いままだっただろう。カチリと携帯を開いた萩原は松田に一本のメールを作成した。
結果、松田の機嫌は悪くなり、特殊犯への態度は軟化した。と、後の萩原は聞くことになる。萩原はこれを、荻谷が自分に作った一つの大きな借りとして認識することにした。